宮崎駿のあれより先に〜稲垣足穂『ライト兄弟に始まる』を読む〜

 おれは率直に言って飛行機が好きだし、それが墜ちる夢を何度も見てきた。おれは飛行機の中でもレシプロ機が好きで、ジェット機以降はあまり好きじゃない。それでも、低く空をゆく飛行機の音がすると、仕事だろうとなんだろうと中断して、阿呆みたいに空を見渡す。おれは率直に言って飛行機が好きだ。理由はよく知らない。

 稲垣足穂も飛行機が好きだ。ただし、それは第一次世界大戦より前の飛行機だ。それより前の飛行機乗り、宿命のごとく墜落していったが好きだ。たぶんそうだ。ただ、率直にそう言うには言葉が足りない。稲垣足穂の幼年期、少年期に見た夢が足りない。そんなもの語りきれるはずがない。
 『ライト兄弟に始まる』は、一般的に言っておもしろい本かどうかおれにはわかりかねる。おれは面白かったが……というのではない。ライト兄弟に始まる飛行機誕生の教科書のようであり、また、あまり微に入り細を穿つ内容に、正直ついていけないようなところもある。だが、ときおり挟み込まれてくる「夏期の絶望と飛行機との結び付き」だの炎暑は「物質に打ち克つ精神の最後の勝利」である飛行機の季節であると同時に、夏は「寂滅」の季節であり、死を同伴者とする空中飛行に似合うだのといわれると、思わずなにかニヤリとしてしまう。

この時代は、操縦者が機上から「クーペ」(オフ)と声を掛けると、地上に居る者が「クーペ」と受け答えてプロペラを廻し、混合ガスを吸入圧縮させる。それから改めて「コンターク」(オン)と声をかける。操縦者が「コンターク」と返事をしてスイッチを入れる。

 整備員はプロペラが黒かったので「黒ペラ」と呼び、赤いものは「赤ペラ」と思い違いしていたという。タイヤは「大輪」と思い「タイワ」と呼んでいたのだとか。
 海外の話も出てくる。飛行士となった虚無党員が某親王を飛行機に同情させ、上空から突き落とす計画があったという。だが、飛行士はそれを実行できなかった。

「天空高く余が飛べる時、発動機の音響を除いては他に何の声籟をも聴かず。今回余が伴いしは、余が辛うじて得たる一人の友なり。如何に残忍の性を持つともいえども、到底これを殺害するには忍びず」

 飛行士は眦を決して詰め寄る同志にこう言い残すと、二度目の単独飛行に飛び立ち、故意に墜落粉砕して果てたという。飛行士の名はマジェウィッチ陸軍大尉。……とはいえ、これは日野熊蔵がだれかから聞いた妄想のたぐいじゃないかと足穂は言う。曰く、日野の話の通りファルマン式の飛行機であれば、同乗者を突き落とすのはむつかしいと。
 しかし、虚無党か。すなわち社会革命党戦闘団を指すのかどうかはわからぬが、そうとすると思い出されるのはアゼフの話だ。アゼフがツァーリ暗殺のために飛行機の発明家にかなりの投資をしていたというエピソードがある。そういう時代の話だ。

 わたしはおとぎ話でも聞くように、アゼーフの話を聞いた。わたしはファルマンやデラグランジュやブレリオの実験を知っていたし、アメリカではライト兄弟が飛行において大きな成果をあげたことも知っていた。しかし、時速140キロを出し、好みの高さに大きな荷物をひきあげる機械は、実現できぬ夢のように思えた。
『革命家群像』ボリス・サヴィンコフ

 これが1907年ごろの話。上のマジェウィッチ墜落事故は1910年。飛行機が沢山の人を殺す時代はあっという間にやってくる。

 模型の話でもしようか。といっても、おれは飛行機の模型など作ったことがない。あるとすれば幼稚園のころ、父親参加のイベントで角材を十字に打ち付け、さらにその尖端に小さな十字の木片をとりつけ、緑色のペンキに日の丸を描いた「零戦」が最初で最後かもしれない。

 自分は大正二年の夏、大阪の天王寺公園の全国発明品博覧会で、日野大尉の乗ったグラデー式単葉飛行機を見て以来、飛行機の感じを保留するには、それに似たものを我手で作ってみるより他はないと思い始めていた。

 われわれが模型工作に熱中するのは、そこに一つのイデーが、ともかく模型的に把握されていて、そのことに依って、実物以上の魅力が唆り立てられるからであろう。ところが、その模型ですら、われわれの場合、例えば適当な翼布あるいは張線の不備に禍されて、完成した例とてはないのである。

「完全者の椅子は何処にも無い」というよりも、「完全なるものはもともと成立しないのだ」という方が適切である。完全なるものは、模型八幡船のように、忘れられた神社の絵馬堂の天井からぶら下がってる他はない。いったい此世そのものが著しく模型的ではないのか?

 飛行機の感じ。それはどんな感じなのだろうか。わかるような、わからぬような。少なくともこの時代にあっても飛行機は身近ではない。身近ならば感じがつかめるのかどうかもわからない。ただ、おれは空飛ぶ飛行機が好きだ。そして、飛行機の墜落する夢を何度も見て、「今度こそは本当だ」と、何度も思うのだ。おれが求めているのは自分が飛ぶことなどではない。手の届かないなにかへの思いか。それとも高きものの失墜か。それがどこか稲垣足穂の感じに通じているのかどうか、おれにはよくわからない。クーペ、コンターク。


>゜))彡>゜))彡