ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』を読む

 四月のある朝、目がさめると麻薬切れで少し気分が悪かったので、寝たまま白い漆喰塗りの天井に映る影を見つめた。すると、ずっと昔ベッドのなかで母のそばに横たわりながら、外の通りから流れこんでくる光線が、天井や壁の上を動きまわるのを見守っていたときのことを思い出した。列車の汽笛、街路の向こうから聞こえてくるピアノの旋律、燃える木の葉などの記憶が鋭いノスタルジアとなって胸を刺した。
 軽い麻薬切れの病気になると、いつものこの魔法のような少年時代の思い出が甦ってくる。「いつもきまってるんだ」とおれは考えた。「まるで麻薬の注射のように間違いがない。ジャンキーはみんなこの驚くべき経験をするのだろうか」

ジャンキー (河出文庫)

ジャンキー (河出文庫)

 おれはちょっと前に「ベンゾジアゼピン文学みたいなものはあるのだろうか?」と疑問に思った(ベンゾジアゼピン文学 - 関内関外日記(跡地)……しかし、ソラナックスじゃ死ねねえだろ、オースターさん)。アルコールやドラッグの文学があるように、と。
 と、いったところで、おれはドラッグ文学というジャンルがあるのかどうかはっきり知らなかった。ありそうな気がする、あるだろう、というだけだ。そんなとき、本棚にその名も『ジャンキー』というタイトルを見つけたのだ。正直に言うと、おれはウィリアム・バロウズの名前も知らなかった。ただ。訳者あとがきと解説を読めば、まさにうってつけじゃねえかと手にとって読んだ。

 ただひたすらにジャンキーの話だった。薬物の手に入れ方、効果、警察の手入れ、断薬、治療、再犯、あるいは、同性愛、介抱スリ、密告屋、大口径のレヴォルバー。それらがシームレスに続いていく。描写はまさにありのままのよう。決まっているときに何が見えたかって、どんな感じかって描写も、決してラリって飛んでいっているわけじゃない。克明な記録といってもいい。似たようなジャンキー、売人が次から次に出てきて、誰が誰だかもわからなくなる。それが面白いかどうか。おれは8割方、退屈だった。けど、最後まで読んだ。読後感がどうかというと、なにかぐったりした。つかれた。

 私は麻薬の方程式を学んだ。麻薬は酒やマリファナのような人生の楽しみを増すための手段ではない。麻薬は刺激ではない。麻薬は生き方なのだ。

 前にも書いたが、おれは生まれて初めて精神科に行ったとき、問診票の「大学中退」の文字を見た医者に「中退ってのは大麻?」と尋ねられた。慧眼だな、と思った。あるいはおれがひと目で分かるティピカルな病人だったのかもしれない。いや、その問いかけに対する答えはノーだし、おれは今まで違法薬物に手を出したことがない。ただ、酒なり煙草なりギャンブルなりに依存するタイプの人間だということは自覚がある。強迫性がある。今おれが依存しているのは安心の処方薬だ。そのためにアルコールを断っている。アルコールはおれの中で無敵のドラッグとして、いつの日にか再び手を出すもののつもりでいる。安上がりだ。
 バロウズの『ジャンキー』と関係ない話をした。どうしたものか。なにか、『ジャンキー』には途中で放れないものがあった。そのなにかはよくわからない。ブコウスキーともディックとも中島らもとも違う。なにとも違った。八割方退屈だったが、途中で放れないものがあった。そうとしか言えない。