小さな流れに乗せられてiPhone5sを買うのこと

注：このエントリにiPhone5sの購入、機能に関する有益な情報、Tips、なにもありません。

「そやかて、この世に生きるいうことは焦るいうことやろが。そやからこそ、お先にどうぞ、思て生きなあかんのやけど、世ン中の人はみな眼の色変えて、我れ先に走って行きよるが、阪神電車に乗るん一つが。これ言い直したら、生きることは捨てることや。あんたは捨てた人や。うちがパン助なったんも、わが身を捨てるいうことやったが。」
車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』

　川崎の人工島の公園でにぎりめしなど食った帰りのことだ。女がヨドバシカメラに寄りたいという。買うつもりはないがiPhone5sないしiPhone5cの実機を手にとってみたいという。おれはべつに否定する理由もなく、ええですよ、と言った。
　おれのiPhone歴は3GSから始まり、4sに乗り換え、次は5sにするだろうとは思っていた。つまりは機能発売さればかりの、女が見たいという機種だ。しばらくは手に入らぬだろうし、4sの支払いも終わっておらんので、今年の11月頃に生きていれば買い替えしようと思うていた。
　思うていたら、「在庫あります」と川崎のヨドバシカメラでは普通に売っていた。実機をいじっていたら店員が話しかけてくる。よくわからぬが、下取りなどなんだので未払い分がどうにかなるなどいい、「いつ買うの？　今でしょ」などと言う。おれはそれを言う店員の心中を察するつもりもなく、「まあ、考えます」とコピー紙のチラシ持って十歩ほど売り場を離れた。
　おれはとくに5sがほしいという気はなかった。4sに入れたiOS7は存外普通に動いたし、それで新しい買いもんをしたくらいの気になっていた。だが、結局は5sにするのだからという気もないではなかった。性能は高ければいいという昭和の据え置きゲーム機世代として、5cというのはもとからあまり考えになかった。5cの手触りは悪くなかったが。ただし、女の持っている無印5の大きさと軽さには少しうらやましさを覚えてはいたが。
　女が売り場に戻って、また先の店員に何事か聞きに行った。今か、と思った。おれが今の生活を続けられるかどうかあやしいが、あやしいからこそ今のうちに新しい機種にしてしまえ。おれは先の店員に「やっぱり今日買うことにします」と言った。5sで32GB、4sからの乗り換え。おれは今さら扱いに慣れたiPhoneから離れるのも面倒だし、ほかのキャリアに移る手続きも面倒だし、それでいいことにした。もっと得に手に入るまで待ってもいいだろうし、初期出荷の人柱という話とて重々承知だが、おれは今買うことに決めてしまった。
　それからは、iPadを手にしたソフトバンクの男の説明を聞き、パッドに署名をし、の繰り返しだった。4sを下取りに出すのは迷ったが、向こうがそちらのほうが金額的に得であることからか、そのように話を進めているのでそれに従った。おれはものを売るのが嫌いなのだが、そうした。商品引き取りまで時間が90分かかると途中で告げられたので、すぐに持って帰るつもりでいたおれは「あれっ」と思い、いったん席を離れて女を帰した。
　いったんいろいろの手続きが済み、90分の空き時間ができた。おれはその間に『青い花』の最終巻と『じょしらく』の最新刊を買った。古着屋で白いシャツを一着買った。最後に車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を買った。どこかで読んで時間を潰そうかと思うたが、時間はとっくに潰れていた。
　ヨドバシカメラに戻ると、用意はできていた。先程はしつこいまでの説明と確認の連続だったが、今度はとっとと渡してしまいたいというふうだった。そこで「ポイントカードをお願いします」と言われてなんのことか困惑した。「え、なんのカードですか」というと、ヨドバシのポイントカードだという。持っていない旨を告げると、iPhone購入者の顧客管理がどうとかで、作らねばならぬという。たとえ「ポイントカードは、ヨドバシカメラが初めに考案したシステムです」と言われようが、よけいなカードは持ちたくない。持ちたくないが、ここまできて無料のポイントカードでゴネる理由もなく、おれはポイントカードとともにiPhone5sと初期に加入させられているサービスとそれをいつ解約すればいいかメモされた紙が入った袋を渡された。店を出て、ここが横浜ですらなく川崎であることにあらためて気づいた。ついでに、淀橋というのが前の東京オリンピックで消えた町名だとかいうことを思い出した。

　手続きの90分のあいだ、4sをヨドバシに預けていた。おれは90分間のあいだ、携帯端末なしの男だった。妙な不安を感じた。アパートに転がっている3GSでいいからポケットに入っていてほしいと願った。この不安が、浮足立った買い物をした影響なのかどうかはよくわからぬ。