担任教師の死

 中学受験の面接をした教師が、高校最後の二年間の担任教師だった。体育の教師だったが、おれが忌み嫌うようなところは皆目なく、好人物であり、やがては好々爺にでもなるのではないかと思わせた。
 その教師が亡くなったというので、急いで葬式に駆けつけた。急ぎだったので、おれはユニクロの白いコットンシャツによれよれの黒いスーツを着だった。こんな格好でいいのかと不安になったが、来ている者たちもみなてんでバラバラなので安心した。しかし、シャツの裾が外に出ているのはさすがにラフすぎると思ったが、路上でズボンを半開きするのもためらわれた。
 葬儀会場である教師の自宅は、彼の住んでいた団地の一角であった。部屋におじゃましてみれば、現役の生徒たちがまた着崩した制服姿などでわいわいやっていた。教師の妻は喪服を来ていたが、洗濯物を畳んで俯いていたので顔はうかがえなかった。
 言うまでもないが夢の話だ。しかし、考えてみればおれは夜逃げ同然で昔の住まいをあとにしたし、高校を出た時点で同級生との交遊などというものもなかったので、おれがかつて学校で知っていた人間の死を知る方法はこれしかないのだ。これ、すなわち夢である。夢の中で死んだという知らせがきたのだから、それはもう死んだということになるより他ないのだ。
 これはなかなか奇妙なことだ。霊感を働かせながら生きる必要がある。いや、必要なんてない。べつにおれはかつての知り合いの生き死にに興味はない。逆に、おれがだれかの夢のなかで死ぬことはあるだろうか。それは、このおれの死と関係あるものだろうか。それも知った話ではないのだけれど。