読むか? 読まれるか? 〜イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』〜

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

 あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。さあ、くつろいで。精神を集中して。余計な考えはすっかり遠ざけて。

 『冬の夜ひとりの旅人が』はこのような書き出してはじまる。そして、「あなた」は『冬の夜ひとりの旅人が』をめぐる冒険に巻き込まれていく。なんにせよ、読書にとっていちばん大切なのは足の位置の決め具合だ。

足を高くしておくというのが読書を楽しむための第一条件だからだ。

 おれはニホンジンらしく、座椅子の上であぐらをかいてこの本を読んだのだが。
 それはともかく、読み終えて思ったのは『キルラキル』のキャッチ・フレーズのようなタイトル冒頭の言葉だ。どうも紹介に用いられている、「読むことで、書くことのよろこびと苦しみが味わえる不思議な作品」というのはピンとこなかった。かといって、読むか、読まれるかといって、それがなにを意味するかわからない。おれはこの小説が意味するところの根っこを引きずり出して腑分けしてみなさんに紹介することはできない。松岡正剛の解説でも読んでくれ
 というかおれは、こういうのを高橋源一郎で読んでいるから、という、よくわからない思いにもとらわれた。じっくり読んでいないというのが正直なところだった。そして、最初と最後で円環の理が閉じるような、あるいはすべてが一本の道に収束していくようななにかを期待していたところもある。なに、そうなっていたって? そうだったかな。よくわからない。いずれにせよ、読書をするときは足の位置を高く。馬にでもまたがって。そのことはためになった。おれは、一冊の本のなかからほんの一つなにか持ち帰ることができれば、それでいいと思っている。あなたはどう思うね?

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……とかか?