おれも2014年も終わってる

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2014年というのは古い。終わっている印象がある。新しさも感じなければ、到達感もない。末尾の「4」というのが、きりのいい「5」の一つ手前というせいもあるだろうか。おれは思わず2015年と書きたくなる衝動を抑えられない。2014年は終わっている。このまま折り返して2015年の新年を迎えたほうがいいんじゃないかとすら思う。

書いていて一つ思い出したが、おれはおれが物心ついた年を1985年だと思っている。この感覚は1985年に極めて近い年には感じていことだ。「自分には1984年より前の記憶が無いようだ」という具合に、1985年の暮れくらいには思っていた。たぶん、たしかな感覚。そして、1984年より前は「古い」、「昔」であるという手触り。

2014年には1984年の手触りがある。だからといって、おれは2015年を望むのかと問われれば答えに窮す。切りのいい年だからといって、なにかしなくてはならないのか。なにもしたくない。逆に、きりが悪いからといって2014年になにかしない理由になるのか。「なに」とはなにか。

正直に言えば、もう今年が何年で、自分が何歳かということなどどうでもいいのだ。どこかの時点で時の進みを踏み外して、世の中の年ばかり経っていき、おれという年齢もそれにつれて増えていくにもかかわらず、おれという生き物は一向に成長もない、変化もない、新しさもない。おれにふさわしい数字は「4」かもしれない。

『人はなぜ自殺するのか』という本を読んだ。「なぜ」かはわからない。9割は精神疾患の情況にあったらしいということがわかるばかりだ。「いつ」というのも研究の対象になるだろう。「どのように」も問題になるだろう(「どこで」に関係するかもしれない)。遺伝とも関係するようだ。

人に自殺のスイッチを入れる遺伝子、というものがあるとする。これが遺伝子のプールに残っている理由。繁殖の時期を過ぎて役に立つ人間。その場合、長生きは種にとってあった方が有利なことだろう。その経験を次代に伝える。知識の伝達、知恵の伝達。あるいは、労働力として長く役に立ち続けるものもいるだろう。

一方で、役立たずの人減らしは合理的だ。狩猟採集生活の中にあって、一応の頭数として(そういった冗長性のようなものは必要とされるだろう)生まれてきて、結局役に断たなかった人間。これを長生きさせる理由はない。スイッチが入る。その群れにメリットがある。そのスイッチはこの21世紀の人間の中にも生きている。

しょせんはおれの戯言ではある。が、おれはこの戯言を少し信じている。言い直す、信じている。おれに関するかぎり、「なぜ」に応えるような気がしている。あとは「おれが」、「自死を」、「いつ」、「どこで」、「どのように」。

……そういっては、「4」の話だけに必死でございました、などとうそぶいて。