渡辺京二『逝きし世の面影』を読む

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 渡辺京二『逝きし世の面影』を読んだ。おれは今まで渡辺京二の本を何冊か読んできた。北一輝宮崎滔天の伝記。ただ、おそらくは代表作とされるであろうこの本は読んでこなかった。心のどこかで「江戸しぐさ」みたいなのだったら嫌だな、という気持ちがあったのだ。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の手記を渉猟し、そのときの世を描き出す。なにやら、「古きよき日本像」なんかを描いてしまうのではないか、と。とはいえ、やはり読んでみなくてはならぬ一冊であろうと思い、手にとった。

文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧は今も東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄せ木細工の表す図柄が新しく変化しているのだ。新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚であろう。
「第一章 ある文明の幻影」

 私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんでくるのだと私はいいたい。
「第一章 ある文明の幻影」

私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。この視覚の差異が私にとって重要だ。そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。それにしても、狸が将軍の真似をしたり、猫が鯛や帯をくわえて来たりする文明が、いったい想起に値する文明といえるだろうか。それは理性の光輝く西洋近代に照らすとき、ひとつの羞ずべき未開の文明ではないか。その問いに対しては、そうだ、明治以降の日本人はことごとくそう考えたのだといまは答えておこう。
「第十二章 生類とコスモス」

 心配は無用だったといえる。渡辺京二の「近代日本素描」には、このような前提があった。「古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚であろう」……なんとも苛烈じゃないか。
 とはいえ、本書全体が苛烈さに満ちているかというとそうではない。メーンとなる訪日外国人たちの手記が、当時の日本を「妖精の国」のごとく描き、親切で優しい、それでいて子供らしくもある人々を語り、乞食を見かけず、最下層の農民ですら清潔で活き活きとしているさまを述べている。ようするに、これをそのまま鵜呑みにしちまうと、「昔の日本はよかった」的な、なにやらむなしい錯覚に陥ってしまう気にもなる。とはいえ、著者はあえて明るい面ばかりをチョイスしてんだと明言し、ダークサイドは別でやってくれという態度で一貫している。その上で、当時の西洋人がその価値観で「逝きし世」をどう見ていたか提出してくるのである。そのあたりは、なんとも微妙なバランスであって、うっかりすると江戸讃美一辺倒の本に見えちまう、そんな気がしてしまうのだ。

 古い日本が異邦人の目に妖精の棲む不思議の国に見えたり、夢とおとぎ話の国に映ったりしたとすれば、それは古い日本の現実がそういう幻影を生じさせるような特質と構造をそなえていたということを意味する。それが賞賛に値する実質をもっていたか、それとも批判するしかないしろものであったかは、われわれの直面する問題の中核を構成しない。われわれはもはや、それに一喜一憂するような状況の中に生きていないからである。いずれにせよ、欧米人観察者にとって目をみはるに足る異質な文明が当時の日本に存在したということが問題の一切なのである。
「第一章 ある文明の幻影」

 そう、幻影なのだ。近代化を終えた欧米人たちが書き残した日本。そこには当然のことながら日本をエルフ・ランドと感じてしまうバイアスがある。近代文明のバイアス。それは、江戸を庭園都市と感じさせてしまう自然の荒廃であったり、個人というものの誕生とともに失われた人々の紐帯であったりするのだろう。そこを見ていこうということだ。これはそういう本だと思う。そして、そういう目から見た、人々の陽気さ、礼節、労働、身分、女性、子供、信仰……がどういうものであったか。むろん、礼賛ばかりでなく、批判や痛罵も紹介されている。しかし、そのひとつひとつがなんとも興味深く思える。おそらくは、大きく構えた日本論、日本人論からの引用は少ない。小さなエピソード、細かな事物について拾い上げている。

 アンベールは言う。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である」。そしてリュードルフによれば、日本の「可愛らしい猫」が鼠を全然捕らえないのは、「婦人たちの愛玩物」であって「大事にされすぎて」いるからなのだ。
「第十二章 生類とコスモス」

 スコットランドの猫はスコッチを守るために活躍しているらしいが、日本の猫は怠け者だったり、化けて出たりするものだったんやな。

 バードは1878年明治11年)の東北縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して宗教について教えられているかどうかを尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。「われわれに宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教はいつわりとご存知のはずです」というのが教頭の答だった。
「第十三章 信仰と祭」

 それと、日本人の宗教。廃仏毀釈より前の1810年代から、武士階級では信仰に対してすでにすっかり冷めて、馬鹿にしていたなんていう観察も残されていたりするとか。一方で、庶民は祭りを楽しんだり、庶民なりの信仰を持っていたりする(リンダウの紹介するところによれば、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内には『おまんこ様』という子宝を授けるという女陰石があったそうだよ)。そういう分離した感じというのがあったらしいと。
 ……などといちいち挙げていればきりはない。詳しくは本書を読まれたい。そして、今この21世紀とかいう時代から当時の世の記録というものを眺めたさいに湧き上がるなにかというものを感じられたい。え、どんな感じ、といえば、やはり近代人としての我が目が、当時の外国人と同じ目をしているという点でもあり……それでもやはり自ら属する今の日本、日本人社会とも共通する日本的なもの、「新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の残存」にすぎないかもしれないなにかを、やっぱり感じてしまうんだなぁ。日本の食事は塩分が多すぎる、とかいうもっともな指摘とかそういうのもあろうが、お上と庶民の関係性とか、ある種の子供っぽさとか。そして、その子供っぽい大人たちが「私たちに歴史はありません。これからはじまるのです」と坂の上の雲を目指して、近代国家の鬼子となっていった経緯。二次大戦でこっぴどくやられて、また這い上がって、しかし、なにかまだある欧米諸国とのある種の成熟さの差であるとか……。そのあたりを思わずにはいられない。
 まあ、そんなところだ。ところで今夜は凱旋門賞。本書によれば、当時の日本の馬というのは去勢もされず、躾が全くなっていない駄馬ばかりで、外国人を辟易させたというが、さて現代日本サラブレッドはどこまできただろうか。当時世界一だったかもしれない園芸植物センターであった日本、血統改良なんぞは好むところだ。さあ、今日のところはここまで。

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