島木赤彦のころ

f:id:goldhead:20151018201104j:plain

島木赤彦はアララギ派歌人であった。同時に教育者でもあった。若くして授業生(教員補助みたいなものか?)となり、師範学校を出て、いろいろの学校の校長をしたり、教育担当の行政官である群視学になったりもしている。

教育においては、野球をやったり野球をやったり野球をやったり女子登山をはじめたり、明治にはじまった詰め込み教育を批判し、わりとアクティブに、そこにあるものを観察するべきだという方針をとった。一方で、実の父親も「先生」であり、儒学やなにかを教わったところから、お固いところもある。お固いところもある一方で奔放なところもある。そういう二面性がある。

実の父親がいれば、実でない父親もいる。塚原の家に生まれ(その正確も相まって少年期には「塚原卜伝」とアダ名されていたらしい)、のちに久保田という家の養嗣子になった。養嗣子になって、その久保田家の長女と結婚するところまで決められていた。そして、結婚して子供ももうけた。が、その長女がすぐに死んでしまう。死んでしまった七日後には、長女の妹との結婚が決まってしまったという。そういう時代である。

教育者としての赤彦は、家庭での教育の重要さも説いた。家族が不和であってはならないというようなことも言った。が、本人はといえば歌人としての活動もあって家も空けがちであった。おまけに、おそらくは愛人と言い切っていいであろう歌の弟子の女教師なんかもできてしまう。奔放の方の赤彦である。

ついには、その関係を清算するためかどうかわからぬが、東京に出たのちに、さらに八丈島に逃げてしまう。借金でだ。そしてその八丈島でも女を作っているようであり、旺盛である。このあたり、文献ではぼかされて書かれていることが多い。だいたいにして、赤彦の次男の久保田健次という人が研究会などにいるのだから仕方ない話である。「お前の父親の愛人関係についてだが」とはなかなか書きにくいものだろう。もちろんプラトニックな関係であった可能性もある。だが、おれは下種な人間なので情事があったとみなしてしまう。

というわけで、妻の久保田不二子と愛人の中原静子のバトルである。これがどこで行われたかといえば、『アララギ』誌上だというのが面白い。静子が赤彦への断ちきれぬ想いをうたえば、不二子は夫不在でたくさんの子供らとの生活をうたってみせる。そりゃあ八丈島にも逃げたくはなるだろう。とはいえ、赤彦は八丈島から両者に手紙を送っているのだから豪胆なものである。

アララギ』といえば伊藤左千夫である。島木赤彦が師事していたともいえる存在である。それまで手紙でのやりとりはあったが、初対面のときである。赤彦は左千夫を細面の人と想像して待ち合わせの場所で待っていたのだが、全然来ない。と、そこに馬車二席分に陣取った肥満の男が現れて、それが左千夫だったというのが面白い。おまけに、目が悪いので眼鏡を二つかけている。ダブル眼鏡である。

赤彦の息子が病気になったとき、失明もあるかということで東京の医者にみせることにした。一応、東京の左千夫にも連絡はしたが、息子の緊急時ゆえにじっくり話せないというようなことは書き添えていた。しかし、左千夫は病院に現れると、赤彦に歌論をふっかけてくるのである。二重にかけた眼鏡でもさらに見えないのでどんどん顔を近づけて、鼻息がふんふん感じられるくらいまで接近して「万葉集の……」とやられるのだからたまらない。赤彦自身も腹の調子が悪かったのだから、なんとかして逃げたという。

伊藤左千夫は決して帝大卒といったエリートのような人物ではなかった。酪農をやっていた。それでいて、歌を作っていた。それに影響されたのかどうかわからぬが、赤彦は養鶏業に乗り出した。学校の教師をしていては文学に打ち込めないという不満があった。そこで、養鶏をすれば家族も養えるし時間もできる。それで文学に専心しようという目論見であった。養鶏業者からすれば、「養鶏なめんなよ」という具合である。事実、その通りになって、方々から借金するはめにもなり、逆に労働に追われて文学どころではなくなり、一年で挫折した。左千夫は、最初の一年、二年を乗り切ればとアドバイスしたらしいが、うまくいかなかった。そしてまた教育の世界に戻り、いきなりどこかの校長などになった。

左千夫はエリートではなかっといったが、自らの後継者ができたと喜んだその人は帝大出のエリートだった。名を三井甲之といった。ところがこの三井、新選組でいえば伊東甲子太郎みたいなものであろうか、ともかく「馬酔木」の後継である新雑誌でいろいろ他者をディスって離反者をたくさん出した。ありがちな話だろうか。

アララギ』も経営は苦しかった。赤彦の創刊した信濃の『比牟呂』と合併したりして、なんとか生きていた。そのうち発行を岩波書店がするようになって楽になった。岩波文庫の壷のマークは平福百穂という日本画家のものであり、彼もまた『アララギ』の歌人であった。赤彦は彼の絵の頒布会などを企画し、『アララギ』の財政に寄与したという。

ほかに『アララギ』の人といえば斎藤茂吉などがいる。斎藤茂吉は医者でもあって、処方した薬で芥川龍之介が自殺したことを悔いていたともいう。斎藤も『アララギ』の編集、発行に携わったが、これはやはりいろいろとたいへんなことで、「あれ、おれ今年一ページも医学書読んでねえや」とか思ったりしたらしい。

島木赤彦はといえば、自殺とは無縁の人のように思える。が、不養生という点では早死に向かっていったようにも見える。文学者、『アララギ』発行者、教育者として旺盛に働いて働いた。友人に「日曜日というのは君のようなものが休むためにあるのだ」と言われたりもした。それでも、詩心が浮かべば煙草をガンガン吸って火鉢をいっぱいにしてそれに没頭したりもした。結局、癌になって五十歳そこらで死んでしまった。

とはいえ、赤彦が早死かどうか一概には言い切れない。彼の母も、最初の妻も、兄弟も、同人も、結核やらなにやらでたくさん早死している。今は人生七十年だか八十年だか知らぬが、当時はそんなのはたいそうな長生きであったに違いない。そんな赤彦が鍛錬道を説き、「人間一生」といったとき、その一生のレンジというものが現在とはおおきく違うのだろうと想像する。

赤彦が死んだのは信州の自宅である、自らが名付けた柿陰山房という家であった。大きな柿の木があって、枝葉が家を覆っていたからそう名付けたという。赤彦自身も「柿乃村人」などという号を使っていたし、柿が好きだった。が、柿ばかりの家というわけではなく、いろいろの木があった。玄関先の老松はたいそう立派で、戦後米兵が「刀狩り」に来たときは、それに気をとられて肝心の仕事がお留守になったくらいだという。

また、植物ばかりでなく、赤彦は動物も愛した。胡桃の木に巣を作るムクドリを、それを狙う子供から守った話など残されている。また、長男が病気のおり、枕元にいた猫に「どうにかしておくれ」と妻が言ったところ、猫は尻尾を立てて立ち上がり、どこかに去って戻らなかったという。それで長男が快復したのちに、敷地の中の祠に猫もまつったという。その猫についての歌もあるはずだ。

そうだ、歌だ。おれは赤彦の歌についてよくわからぬ。万葉集のいかに偉大なるかまるでわからぬ。赤彦と歌論の上で対立した前田夕暮の方がぐっとくる。とはいえ、その夕暮の影響もあったんじゃないのか、というあたりの歌一つ悪くない。これは芥川龍之介が赤彦の訃報を聞いて書いた一文にも引用されている。

 二三箇月たった後、僕は土屋文明君から島木さんの訃を報じて貰った。それから又「改造」に載った斎藤さんの「赤彦終焉記」を読んだ。斎藤さんは島木さんの末期を大往生だったと言っている。しかし当時も病気だった僕には少からず愴然の感を与えた。この感銘の残っていたからであろう。僕は明けがたの夢の中に島木さんの葬式に参列し、大勢の人人と歌を作ったりした。「まなこつぶらに腰太き柿の村びと今はあらずも」――これだけは夢の覚めた後もはっきりと記憶に残っていた。上の五文字は忘れたのではない。恐らくは作らずにしまったのであろう。僕はこの夢を思い出す度に未だに寂しい気がしてならないのである。

魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り
 これは島木さんの述懐ばかりではない。同時に又この文章を書いている病中の僕の心もちである。

芥川はこれを書いたのち、一年も立たずに自殺した。魂の重さは21グラムというが、赤彦も芥川もそんなこと知らなかったに違いない。

熱気のある時代というものがあって、熱気のある人間たちが生きた。人口の違いや平均寿命の違いもあったのだろうと思う。それがもたらしたよいところもあれば、わるいところもあるだろう。時代の移り変わりのなかで適応できた人間もいれば、できなかった人間もいる。いつの時代でもうまく生きられるものもいれば、そうでないものもいる。違いもあれば、同じ人間のすることということもある。とはいえ、二重に眼鏡をかけている人間というのは、昨今、あまり見かけない。

 

>゜))彡>゜))彡>゜))彡>゜))彡

教育者としての島木赤彦

島木赤彦の人間像 (笠間叢書)

柿蔭山房―島木赤彦の家とその周辺 (1975年)

続柿蔭山房―亀原時代の島木赤彦とその周辺 (1974年)