ら、来年の桜花賞くらいまでさようなら……。
— 黄金頭 (@goldhead) 2015年12月27日
おれが去年の有馬記念の日にこうツイートしてから4ヶ月ほど過ぎた。よくある馬券親父にあるように、こんな言葉をなかったことにして「金杯で乾杯」などということにはならなかった。地方、中央合わせて、おれは2016年になってからまったく馬券を買っていない。100円も買っていない。本当に桜花賞くらいまでサヨウナラしたのだ。
そして、桜花賞すらさようならした。おれはおれが馬券を買わないのは東スポを買っていないからだと思っていた。紙の馬柱がなければ馬券が買えない世代。桜花賞の週、おれは東スポを買った。しかし、馬券は買わなかった。桜花賞の馬券をスルーするというのは、おれが競馬というものと接して以来、初めてのことではないだろうか。あるいは、G1昇格後のフェブラリーステークスも。
それでもおれは競馬中継を見てきた。奇妙なことに、中継はチェックしていた。ときには録画した。それでも馬券は買わなかった。今日も買わなかった。買わなかったが、中山グランドジャンプとアンタレスステークスの中継を録画して見たりした。
金がない、というのは第一にある。第一にあるが、かといって最高峰のレースに500円くらい賭けるくらいのことはできる。それすらしない。ある種の強迫観念がそうさせているのか。よくわからない。
馬券を買う意義を失っている、というのは少しある。それは機械的な買い方で必勝法があるのに、人間の脳で(しかも他人から比べて劣っている脳で)馬券を買う意義、意味はあるのかということだ。賭けには快楽がある。快楽があるが、確実に賭けて儲けられる存在がいる一方で、同じことをしようというのは、なんというのか無益だ。たとえそこに「今年の皐月賞に参加する興奮」というものを勘案したところで、その無益、無感動はつきまとう。機械的な買い方で皐月賞が買う対象のレースにならなかったとしてもだ。馬券を買うこと自体につまらなさがついてまわる。おれは将棋や囲碁をやらないが、あまり強くない、あるいはそれなりに強いアマチュアの棋士たちはどう感じているのだろうか。
そしておれはまた今週も東スポを買った。買ってみた。清水成駿と東スポは完全に切れたのであろうか。あるいは、清水成駿の身に何かあったのであろうか。それはともかく、おれの手元には皐月賞の馬柱がある。おれには前哨戦をテレビ観戦してきた印象もある。それでもおれは皐月賞を買わないのか。それともおれは皐月賞を買うのか。買うとすれば何を買おうとするのか。その答えは明日決まる。ツイッターででも確認してくれ。以上。