うれしければ、喜んでいいんだ

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「……というわけで、そのほしい物リストからいろいろおくってもらって、なんていうか、軽躁状態みたいな感じになってます」とおれ。

「いや、それは軽躁じゃないよ。普通にうれしいことなんだから、普通の人も喜びますよ。喜んでくださいよ、前向きに」と医者。

「……!」とおれ。

おれは驚いた。驚いたおれにも驚いた。おれは普通に喜んでいいことが起きたのに、双極性障害の病状が変化したと思っていた。軽く躁転したのだと思っていた。

普通にうれしいことがあったのだから、普通に喜んでいいのだ。おれにはそれがわかっていなかった。おれは普通に喜んでいいのだ。おれはおれが生きていて普通に喜んでいい存在だと思っていなかった。喜べない人間だと思っていた。喜びや楽しみの受容体がぶっ壊れている人間だと思っていた。実際のところ脳のなにかがぶっ壊れてるから病院になぞ通っているのだけれど、おれにも普通の人間と同じように普通に喜んでもいいのだ。少なくともそういうものは部分的に許されているのだ。驚きじゃないか。

と、驚いたところでおれの中で喜び探しをはじめたが、どうにもよくわからない。おれはうれしい。おれは喜ぶ。その感情の手触りがわからない。正常な反応がわからない。たとえば金属バットで頭をぶっ叩かれたら痛いと思う(死ぬかもしれないが)はずだが、ぶっ叩かれてもなんか痛くないというような感じ。やはり長く鬱屈したまま生きてきた性格、精神の病、いろいろなものが相まって、おれには、喜びをどう感じていいかわからない。表していいかわからない。笑えばいいの? 手を叩けばいいの? それともブログに感謝の言葉を綴ればいいの? もちろん礼儀、仁義として綴った。嘘じゃない。でも、それはおれの喜びの素直な反応だったの?

考えれば考えるほど、おれにはおれというものの感情の実態がつかめなくなっていく。おれに感情というものがあるのか、いや、負の感情らしきものならいっぱいある。不安に満ちている。恐怖に満ちている。ただ、正の感情が存在するのか。おれはおれがゾンビじゃないかと思えてくる。喜び方のマニュアルはないのか? 楽しむということのマニュアルはないのか? そんなことを考えていると、躁転と勘違いしていたうっきうきの体感も消えていくようになる。

うれしければ、喜んでいい。

あなたは喜ぶことがあるだろうか。いつも? しばしば? ときどき? めったにない? おれは……。

 

……とか書いておきながら、置いときますね。

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