『佐藤泰志作品集』を読む

佐藤泰志作品集

佐藤泰志作品集

 おれもおおよその佐藤泰志作品を読んだといっていいかもしれない。すべて読んだわけではない。セリーヌはおそらくすべて読んだが、佐藤泰志はすべて読んでいない。しかし、おおよそは読んだ。それでいい。
 この作家は夏が似合う人だったのか。むせ返るような若さが似合うような人だったのか。おれにはよくわからない。夏と若さ、それにこだわるような作家だったのか、疑問に思うところはある。自死直前の『星と密』や『虹』を読むにそう思う。
 とはいえ、たとえば芥川賞を獲得するにには何かが足りない。佐藤泰志佐藤泰志らしさがあって、それは人の(おれの)心ののどこかをつかむところがあっても、それでも何かが足りない。そう思わせるところがある。そこに気づいて自殺を選んだのかどうか、おれにはわかりようもない。
 この『作品集]には、佐藤泰志の略歴や、著作目録がある。そこでおれは、佐藤泰志がテレビドラマの批評を行っていたことや、「日刊アルバイトニュース」にコラムを書いていたことを知る。そして、「日刊アルバイトニュース」にて次のようなタイトルのコラムを書いていたことを知る。

「ダービー馬よいずこへ」

「飛ぶなミホサンスカイ」

 佐藤泰志と競馬。『海炭市叙景』の「夢みる力」。グランパズドリームの名が見える。あるいは、『君の鳥は歌える』のインターブランプリ。きっと佐藤泰志は競馬をやる人だった。きっとそうに違いない。それはおれに「フィグネルの窓」というコラムよりずっと訴えかけるものがあるのだ。
 「ダービー馬よいずこへ」は1984年6月4日に発行された。1983年のダービー馬ならばミスターシービー、当年であればシンボリルドルフである。1982年となればバンブーアトラスであって、「いずこへ」というのに合っているかもしれない。
 「飛ぶなミホンサンスカイ」となると、さらに想像がつきにくい。ミホンサンスカイという馬はいた。

 ホーントにいた。

 あるいはここの「>>517 」に記されている。
 マイナーな競走馬、だったのだろう。ただし、だれかの(517が佐藤泰志でないかぎり)記憶には少し残る競走馬だったのだろう。「飛ぶな」とはどういうことだろうか? 競馬で「飛ぶ」となると、人気を背負って馬券圏内から外れるか、障害のジャンプということになろう。将来が期待されていた馬が障害に転向したのを嘆いたのかもしれない。ネットの外まで調べればわかることかもしれないが、調べる気はしない。
 また、『納屋のように広い心』に次のような記述がある。

 「今日も、東京の競馬場で見た馬に賭けたほどだ」
 名をきかれた。光恵も知っている牝馬だった。あのスプリンターが、とすこし驚く。
 「格下げになって、俺の故郷にまで遠征してきたんだ」
 デビュー当時から、名スプリンターとして将来を約束されていた馬だった。そういえば三歳の新馬戦も秀雄の故郷でデビューし、レコード勝ちをしたのだ。とにかく速かった。

 これなども、ネット上では歴代レコード馬の情報が見つけられないので、実在とも架空ともわからない。まさかハギノトップレディでもあるまいし。とはいえ、そういう馬がいて、佐藤泰志はそこに己を見たのだ、多分。
 いずれにせよ、佐藤泰志はG1のタイトルを獲ることなく死んだ。自分を見限った。おそらくはよき競馬コラムニストになれたであろうが、それもうっちゃり捨てた。若さと夏に殉じた。本当は秋が向いていたのかもしれないし、ある種の軽さをもって立ち回れればよかったのかもしれない。ただ、佐藤泰志は夏を、若さを、函館を描いた。描き続けた。おれはそれが悲しいようにも思えるし、それはそうでなくてはならなかったようにも思う。村上春樹のようになるには、なにかが足りなかったし、『そこのみにて光輝く』の後半は映画にしてまとめられたように蛇足だったかもしれない。しかし、愛すべきところのある作家である。どこかが足りない、それを補えば名作になる。映画というメディアがそれをなしつつある。それが作家にとって幸せなことであるかどうかはしらない。ただ、おれは、おれと同じく精神の病を抱えたこの作家の作品になにか感じ入るところがある、とだけ言える。万人に勧められる傑作だとは言わない。ただ、ある種の人々に突き刺さる作家であるとは言える。そんなところである。

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