おれとヤクザの思い出 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』を読む

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

 おれとヤクザの話をしよう。あるいはもう何度も書いてきたかもしれない。おれの生まれ育った鎌倉の家と土地は、親の商売の破綻により、手放すことを余儀なくされた。手放すさいに、その仲介を請け負ったのが在日韓国人で表の商売は不動産屋をしているヤクザだった。その人を紹介してくれたのは知り合いの警察官だった。母親はそのヤクザに会い、心底同情してくれたといい、取引を任せる気になっていた。おれは母親に土下座して「そんな得体のしれないヤクザに頼るのはやめてくれ」と言った。しかしおれはそのころ、ただのひきこもりのニートだった。結局、家と土地の処分はヤクザに任された。結果として、それは成功に終わった。とりあえずは、現金が手に入ったし、一家離散したものの、ホームレスになるようなことはなかった。これがおれとヤクザの一番の接近だった。それからそのヤクザからの接触はなかったし、ヤクザとすれば警察官に恩を売ることでこの一件は目標を達成したということなのかもしれない。その後、横浜は寿町界隈で物理的にヤクザと接近することはあっても、ヤクザと接点を持つことなく生きてきた。今のところは。
 そういうわけで、おれはそのヤクザと直接対面したこともなかったし、リアルにヤクザとやりとりすることも経験せずにここまで生きてきた。ヤクザといえばどちらかというと映画やなにかの世界のことである。リアルなヤクザとはどのようなものなのか。『潜入ルポ ヤクザの修羅場』はリアルなヤクザを少しばかりおれに教えてくれたようだ。

 意外なことに暴力団ボキャブラリーは貧困だった。2010年に公開された北野武監督の『アウトレイジ』では、暴力団たちが「なんだと、この野郎」、「馬鹿野郎」と、同じフレーズを連呼していたが、あれは非常にリアルな暴力団の姿だ。関西の暴力団はまた別だ。彼らの啖呵にはユーモアが満載で、「うまい!」と唸らされることが多い。

 なんとも、(関東の)ヤクザは『アウトレイジ』の「なんだこの野郎!」がリアルだという。北野武といえば『芸術新潮』の連載に「男の勝負は一瞬で決まる」とかいう題でヤクザの大物のことを書いていたような気がするし、「リアル」を知っているのかもしれない。
 ほかにも知らないことは多かった。おれは実話系のヤクザ雑誌を読まない(あらゆる雑誌について買う金がないので読めない)こともあって、新鮮であった。

 この追徴金は覚せい剤の押収量×純度×大日本住友製薬が製造しているヒロポンの価格で決定する。

 ある組員の薬物裁判についての記述だ。「ヒロポン」など過去のものと思いきや、今でも製造されているのだ。こんなこと知りもしなかった。Wikipediaにも「2014年現在、処方箋医薬品として「ヒロポン錠」「ヒロポン注射液」の二種類が製造されているが、医療機関覚醒剤を治療に使用する場合には、都道府県知事への事前の届け出義務があるなど、極めて管理が厳しい。」とある。どんな場合に処方されるのだろうか。それはわからぬ。
 また、横浜の文字も出てくる。

横浜で大量の機関銃や爆薬などが押収されたとき、逮捕された稲川会の組長も自衛隊出身だった。暴力団らしからぬ爽やかな人で、この右葉のトップと同じような印象だった。

 ヤクザには自衛隊出身者がいる、という話である。厳しい縦社会、体育会系のあたり、自衛隊出身者が適任(?)ということもあるのだろうか。
 本書には他にも元愚連隊の帝王の晩年や、飛田新地の実情、西成の「ハコ屋」のことなど、興味深いエピソードにあふれている。

 ハコ屋の絶頂期は、ちょうど私が飛田に部屋を借りていた2000年前半で、当時は30店あまりのハコ屋があった。景気の悪化と3連単の登場によって、次第に客足が減り、いまは3分の1程度になっている。3連単は配当が大きいので、たった100円張られてもかなりの損失になるのだ。ハコ屋に来る客はみな万馬券狙いのため、かなりの資金力がないと、公営ギャンブル通りのオッズでは経営が成り立たなくなった。

 3連単がノミの弱体化につながっていた、というのも意外な話である。3連単がないころでも、ノミ屋はでかいオッズに貼る客がいたら、実際に本当の場外馬券場に若いのを走らせて、実際の馬券を買わせていたというが(いつか「別冊宝島」で読んだ)、3連単ともなるとそういうのも割が合わないことになったのだろう。面白い話ではある。しかし、3連単が馬券の主流になるとは、ワイドが始まる前から馬券を買っていたおれからすると想像もつかないことだ。まあ、これはヤクザとは関係ないが。
 と、ヤクザと博奕の話も出てくる。手本引きの話が出てくる。これも興味深い。というか、むずかしい。手本引きという複雑な博奕など衰退するしかないな、と思わされる。というか、いくらか手本引きについてネットなどで見ていてそう思っていたが、さらにその思いを強くした。とはいえ、チンチロリンやインディアンポーカーでは博徒の威厳というものがないのだろうな、とも思う。
 まあなんだろうか、細かいところばかり感想を書いた。本書の魅力はひょんなことからヤクザ専門誌の編集長になり、その後フリーのヤクザライター(?)になった著者の感情や行動にある。そのあたりは読んでみるしかない。読め、読め。ここには、いくらか日本という国の抱えるなんらかの特徴が詰まっている。できれば縁なく過ごしたい。けれど、どこかで縁があるかもしれない。おれにしたって、間接的にそうだった。そういうものを知っておくのも、また悪くないだろう。そして、人間という愚かしい生きものの極端な部分が見られるのも、また悪くないだろう。

 なかでも私が興味を持ったのは、暴力という原始的かつ、もっとも実効性の高い手段だった。暴力論という高尚な話はさておき、ごく身近にある暴力団たちのそれは、人間社会の原型を知るには最適の題材ではないか。