※旧字体とかは面倒なので引用時に変えちゃってます。
- 作者: スティルネル,草間平作
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1929/08/05
- メディア: 文庫
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何事だつて僕の事でないものはない! まづ第一に善の事、それから神の事、人類の事、真理の・自由の・人道の・正義の事。さらにわが国民の・我が王君の・わが祖国のこと。最後には精神のことまで、そしてその他の無数のこと。ただわが事だけが一向僕の事でない。「自分のことばかりを考へる自我主義者(エゴイスト)に恥あれ!」だ。
「僕は何物にも無関心だ」、というタイトルでこう始まる。なにか憤っているというか、主張しているなーと思う。え、そんなん? だっておれ、難しいことわかんねえもん。
さうだ、全世界に幽霊が出るのだ! ただせかいにといふだけか? 否、世界そのものが幽霊になつて出るのだ、世界が幽霊なのだ。一体幽霊といふのは、眼に見える身体を持つた真の精神よりほかの何物であらうか? ところで、世界は「空」であり「無」である、ただ眼をくらます「外観」である。その真なるものはただ精神のみである。世界は精神の体躯である。
はあ、さようで。精神でござんすか。
我々にとつて大切なのは、我々が国家のために存在する、すなはち市民である、といふことではなく、むしろ我々が相互のために存在することである。即ち、我々は銘々ただ他人によつてのみ生存するといふこと、他人は彼が僕の需要のために骨折ると同時に、また僕によつて彼の需要が満たされるといふことである。例へば、彼は僕の衣服のために働き(仕立職)、僕は彼の娯楽のために働く(喜劇作家、軽業師、等)、彼は僕の食料のために働き(農夫等)、僕はかれの知識のために働く(学者等)といふがごときである。かやうに労働者たることが我々の尊厳であり、我々の――平等である。
このあたりはなんや、相互扶助の関係というか、そういうのやろうね。でも、共産主義的な労働第一にはどうも批判的なようでありまして。
もしも君が『懶け者』であつたなら、彼はなるほど君を人間と認めないわけではないが、しかし『懶惰な人間』として君を懶惰から浄化し、勞働は人間の『宿命にして天職』であるといふ信仰に改宗させようと骨折るであらう。
人を機械的労働に繋縛しておくのは、殆ど奴隷制度に等しいものである。或る工場労働者が十二時間あるひはそれ以上働いて死ぬほど疲れたならば、そのとき彼は人間であることを奪はれたのである。あらゆる労働は人間が満足せしめられるといふ目的を持たねばならぬ。それ故、彼はさやうな労働においてもやはり親方にならねばならぬ。即ち、その労働を全体として為しえねばならぬ。
このあたり、もちろん留針工場で針金を伸ばすような労働というものは現存しているだろうが、そのようなものがさらに機械に取って代われれ、人々の多くがサービス業なるものに従事する現在ではどうだろうか。やはり「偶然事の奴隷」であるような気がしてならない。
もしも君が人間になるまでは君自身を無価値と考へるといふのなら、君は「最後の審判」まで、人間あるひは人類が完全の域にに達するといはれる日まで、待たねばならないだらう。しかし君はたしかにその前に死ぬるであらうから、君の勝利の冠は一体どうなるであらう?
だから、君はこの場合を顛倒して、自ら云ふがよい、僕は人間だ! と。僕は人間を僕自身の内に作りあげる必要はない。なぜなら、人間は既に、僕のあらゆる性質と同じく、僕に付属しているからだ。
ぼくは56億7千万年後まで待つのか? 待たぬのか。盤珪の云うことが正しいのか。
などなど、なにやら話がそれる。というか、上に引用したものがはたしてスティルネルの言うことかどうかわからぬ。ババーっと述べて、それに反論するような書き方をしている。それに、なにやらなにかババーっと突っ走っていて、ヘーゲル? みたいなおれには理解できんというところがある。とはいえ、大杉栄のようなにおいがするし、アナーキストたちへの影響も大きい。よし、下巻も行くか! という元気はないので、いずれは上下巻自分の所有としてゆっくり読みたいと思う。以上。