風の谷の一族

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大学時代に大村という男と同居していた。今風に言えばシェアハウスとでも言うところだが、実のところ地方から出てきた金のない人間が、狭いアパートを折半していただけの話である。

大村はこれといった特徴のない風貌の男だったが、行動は突飛なところがあった。革命を目指す極左の面子と徹夜で革命について語り合ったかと思えば、新右翼の集会で天皇との恋闕を熱く演説していたりもする。遊びもしたが、学業もそつなくこなした。それでいて、どこか飄々として、とらえどころない男だった。

ある夏休みのことだ。大村が「ぼくの故郷に来てみないか?」と誘ってきた。アルバイトに明け暮れるのもつまらないし、その誘いにのってみることにした。大村の故郷は西の方にあって、馬鹿話をしながらローカル線を乗り継いで、それでもたどり着くのに時間がかかったものだった。そうしてようやく最寄りの無人駅にたどり着いた。周りには田園が広がり、ポツポツと民家が見られた。「ここか?」と問うと、大村はニヤリと笑って「これから山登りだよ」と言った。

文字通りの山登りだった。地元の人間ですら見落としてしまうような山道に入り、ひたすらに登った。「ぼくの村はねえ、山を登ったその先の谷の中にあるんだ」。

気持ちいい風が吹いた。ふいに景色が開けた。そこにはゴツゴツとした崖に挟まれた集落があった。「ようこそ、かな」。今度は急な斜面を慎重に降った。ようやく、人里と呼べる場所にたどり着いた。

と、そこに一人の老人が歩いてくる。なぜか下半身は裸だった。谷を吹く風を受けたその下半身はやがて大きくなり、年齢に似つかわしくない怒張にいたり、やがて解き放った。両手は後ろ手に組んだままだった。

ぼくはそれを冷静に見ていた。とくに目をそらすでも、話題にするでもなく、自然にすれ違った。そんなぼくを見た大村は「やっぱりな」というような表情を浮かべたように思った。気のせいかもしれない。

大村の実家に案内された。意外といってはなんだが、山奥の村とは思えないような一戸建ての家で、室内も新しい家電で充実していた。エアコンはついていなかったが、開けっ放しの窓から涼しい風が吹いてきていた。「この谷には風が集まるから、エアコンを使うのは冬だけなんだ」と大村は言った。その日は大村の両親に挨拶し、もてなしの料理をいただき、お風呂もいただき、空いている部屋に布団を敷いてもらって、すぐに寝てしまった。大村の両親も仕事で東京にいることが多く、話し言葉も標準語というやつで、家だけで判断したら、都会の新興住宅のようだった。

翌日、大村が「ちょっとぼくの祖父の家に来てもらいたいんだ。母方の祖父の家」というので、「なんでだ? もちろんいいけれど」返した。「まあ、まあ、いいから」と大村。

大村の祖父の家は少しわざとらしいくらいの古民家といったところで、古びた木造に茅葺きの屋根がのっかっていた。表札には「風間」とあった。こちらは室内も外見と変わらず、まるで再現された古民家館のようだった。そこに大村の祖父がいた。白く長い髪を伸ばし、なにか村長の風格があった。

「遠いところからよう来なすった。まあ、この小豆菓子でもいただきなされ。一昨日までおまんの女衆が来ておってな」と大村の祖父。

「ああ、これは美味しいですよね、おまんの地方の特産物だ」とぼく。

そこで大村と大村の祖父は目を合わせて、笑い出す。

「やっぱりそうか、そうだと思ってたんだよ。おまんの小豆なんて知ってるのはこっちの世界の人間だけだぜ。それに昨日も、あの爺さんを見てとくに不思議に思ってなかったもんな」と大村。

「そいだ、若いもん、こん孫っこから、あんたさまの名字と出身地を聞いてだな、こんはこつるがもんが思いましてな、いやいや、偶然たるはあるもんやいう話ですな」と大村の祖父。

ああ、そうか、そういえばここでは自然体だったな、とぼくは思う。

「さいでな、若いもん、あんさんに見せたかものあるがね」と、大村の祖父は古い木箱を持ってくる。木箱には両の肩掛けがついており、旅に携帯するもののように見えた。

「あいは十年、いや二十年前のことやったかいの……」と大村の祖父が話だそうとすると、大村が遮る。「いや、じいさま、まずぼくらのことを紹介するのが先じゃないかな」。

大村の話によるとこうだ。この村の一族は風の一族とも呼ばれ、風による刺激を悦びとし、それを追求してきたという。出自は南方とも言われ、あるものは暖かな風を好み南にとどまり、あるものは冷たい刺激を求めて北の大地を目指した。この村は強風を好むものたちが築いたものという。ときには土地に縛られぬものとして、権力者に雇われ、諜報に携わったりしたともいう。

「風なんておかしいと思うかい? でもさ、最近の研究でも千人に五、六人はそういう趣味があるっていうんだぜ。まあいい、それでさ、ずばりキミは、わいせつ石こうの村の出なんだろ?」

「あんがいバレてしまうものなんだな。蛇の道は蛇、か」とぼく。

「そうだ、それでこの道具箱だ」と大村。先ほどの木箱を開けると、なかには懐かしいわいせつ石こう道具が隙間なく詰め込まれていた。これはいわば簡易工房とも呼べるもので、旅先で一通りの作業ができる。商いというよりは修行者などが旅をするときに使ったものだった。

「それで、さっきの続きだけどさ、十五年くらい前に一人のわいせつ石こう職人がこの村を訪れたんだ。その職人はいろいろな世界を見てまわり、それを石こう造りに活かせないか追求しているようだった。ぼくらは風の一族だから、風通しがいいんだ。いつまでも居てくれてかまわんってことになったんだ。そうしたら、職人も風を気に入ったようで、いろいろな方法を試しては、それを事細かに記録していたって話だ。だけどある日、村の衆でもなかなかやらない、崖落ちという技に挑んで失敗し、運悪く命を落としたということだ。ほら、これがその記録帳だ」。

そう言うと大村は一冊のノートを差し出した。その表紙には、幼いころ行方知れずになった、私の父の名が記されていた。庭のソヨゴの葉が風に揺れて音を立てた。

 

あれから何年経つだろうか。大村は大学を卒業すると、海外の家電メーカーにあっさりと就職を決めてしまった。「ちょっとしたコネがあるんだよ。吸引力の落ちない掃除機、羽根のない扇風機、そんなものがあったらいいと思わないか?」そんなことを言っていたように思う。ぼくは東京に残り、サラリーマンになった。職人の道にも入ることはなかった。それでもときおり故郷の村を、そしてあの風の谷のことを思い出す。家電売場の高級な掃除機や扇風機を見たり、風に吹かれたりするときに。