関を閉ず
我が心 世を忘るること久し
世も亦た我を干さず
遂に一に事無きを成し
因りて常に関を掩うを得たり
関を掩いて来 幾時ぞ
髣髴たり 二三年
書を著して已に帙に盈ち
子を生みて能く言わんと欲す
始めて身の老いに向とするを悟り
複た世の艱多きを悲しむ
時に趨く者を迴顧すれば
塵壌の間に役役たり
歳暮 竟に何かを得ん
且く安閑たるに如かず
白楽天といえば「長恨歌」か「琵琶行(引)」かとかいうことになるのかもしれないが、おれはこのように関を閉じてしまうあたりが好きだ。老いるがままに任せ、朝酒を飲んでいるあたりがいい。実際には科挙をクリアした国家のキャリア官僚だったとか、そのあたりは見ないことにしておきたい。こうやって、俗世であくせくする人間を横目に、安閑言ってるところがいい。ちなみおれは言語の韻だの平仄だのわかるはずもない。
食後
食罷りて一覚の睡り
起きて来たりて両甌の茶
頭を挙げて日影を看れば
已に複た西南に斜めなり
楽人は日の促きを惜しみ
憂人は年の賖きを厭う
憂いも無く楽しみも無き者は
長短 生涯に任す
リア充は時間が短いと惜しみ、メンヘラは終わりの見えない長い現世を厭う。パーリ語で言えばドゥッカ、ドゥッカ(Dukkha,Dukkha)、すなわちパーリ・ナーイ(Party Night)。だけれども、どちらでもない境遇にあれば長芋もとい長いも短いもない。老荘か禅かわからぬが、そういう境地をうたう。飯食って寝て起きたらなんか夕方だし茶でも飲むか、という。
自ら喜ぶ
身慵くして勉強し難し
性拙くして遅迴に易し
布被 辰時に起き
柴門 午後に開く
忙は能者を駆りて去り
閑は鈍人を逐いて来たる
自ら喜ぶこと 誰か能く会せん
才無きは才有るに勝る
で、このあたりの、ぐうたら讃歌みたいなやつな。ものぐさだから勉強できへん、不器用でのろまやし、と。辰時というと午前八時ごろで、それでも充分に早起きかと思えるが(おれはロングスリーパーとでもいうのか、休日など平気で午後二時、三時、四時まで寝てしまう)、日が暮れていたら眠ろうかという時代なので遅起きなのだろう。それでもって、忙しさは有能なやつを駆り立てて、閑は鈍いやつのあとからついてくる、なていう。駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚。別れはいつもついてくる、幸せのあとをついてくる。そんなことはどうでもいい。自ら喜ぶソロプレイ。そこで才無きは才有るに勝るという。……ってあんた才ある高級官僚やろ、という突っ込み待ちというか、矛盾というか、あるいは「才が無いのがいいんだよ」という上から目線かよくわからぬ。よくわからんが、そのあたりがマジ卍(おれは賞味期限の短そうな言葉も嫌いじゃないのです)。
それじゃあ、まあそんなところで、おれはひとり「卯時の酒」といきますか……。