フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』を読む

フェルナンド・ペソアって誰や。

フェルナンド・ペソア - Wikipedia

フェルナンド・アントニオ・ノゲイラペソア(Fernando António Nogueira Pessoa、1888年6月13日 - 1935年11月30日)はポルトガル出身の詩人・作家。

ポルトガルの国民的作家として著名である。1988年に発行された100エスクード紙幣に肖像が印刷されていた

 

リスボン生まれ。5歳のときに父親が結核で亡くなり、母親が南アフリカの領事と再婚したため、ダーバンに移る。ダーバンとケープタウンで英語による教育を受ける。17歳でポルトガルに戻り、リスボン大学で学ぶがのちに中退。祖母の遺産で出版社を興すが失敗し、貿易会社でビジネスレターを書くことで生計を立てた。

1915年に詩誌「オルフェウ」創刊に参加。わずか2号に終わるものの、ポルトガルモダニズム運動の中心となった。少数の理解者を除き生前はほぼ無名であったが、死後にトランクいっぱいの膨大な遺稿が発見され、脚光を浴びるようになった。

日本語版ウィキペディアでほぼこれが全文である。さまざまなペンネーム、いや、細かく設定された仮の人格を使い分けて書いたことすら書いていない。

というわけで、あまり現代日本じゃ知られていないんじゃないのかな、ペソア。いや、「ペソアほどの有名人を!」といわれたら、自分の無知を恥じるしかないのだけれど。だってだって、おれ、知らなかったんだもん。

まあともかく、そういうわけで、ポルトガル文学なんてまるで知らないので、本書を目にしたとき「おれはポルトガル文学なんてまるで知らないな」と思って手に取り、ちょっとめくってみて、「これはいい」と思って読んでみた次第。

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

で、この本の「巻末エッセイ」を池澤夏樹が書いている。こんなことを言う。

ぼくはこの小文を本文からの引用なしに書くことができそうにない。だが、それを始めると引用がどんどん増えてやがては全部乗っ取られ、筆者としての人格を失いかねない。池澤夏樹とはベルナルド・ソアレスやアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスのようにフェルナンド・ペソアが作った仮の人格の一つかと思われてくる。ペソアは憑く、というのはこういうことだ。

うわ、そうなんだよな。おれはこの本の感想を書こうとする、あの断片とこの断片と、この部分とあの部分を……と思うときりがないのだ。おれが読み返すためにおれが書き留めるというのに、全文写経のようなことになってしまう。それだけの魅力がある。

でも、適当に書き留めておく。

一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思いこんでいることを言う。

ペソアは詩人でもあったろうが、おれに詩はよくわからぬ。詩人の心中など想像したこともないが、こんなん言われると、なにか要所をついているように思える。

 

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 ペソアにはこういうところがある……のではないか。自分でない自分。仮の自分、自分の自分。

 

ただ考えない者だけが結論に達する。考えるとはためらうことだ。行動の人はけっして考えない。

ペソアは行動の人ではなかった……のではないか。ためらいのなかにあったような気がする。

 

私は実在しない都市の新興住宅地であり、けっして書かれたことのない書物の冗漫な注釈だ。私は誰でも、誰でもない。私は感じることも、考えることも、愛することもできない。私は書かれるべき小説の登場人物であり、風に乗って漂い、かつて存在したこともなく、私を完成することがえきなかった者が見るさまざまな夢のなかで四散している。

ペソア名義で書かれていない(ベルナルド・ソアレス名義)というところで、この構造をどう見るかはしらない。しらないが、この空虚さ、無についてはなにか共感するところがある。

 

 人生とは自分が知っているもののことだ。農夫の目には自分の畑である平原がそのまま世界であり、この平原はひとつの帝国だ。自分の帝国すら大したものでなかった皇帝の目には、その帝国は平原にすぎない。貧しい者は帝国を持ち、強者は畑を持つ。実際、ひとが所有するのは自分の感覚以外のものではない。だから、見られたものではなく、感覚の上にこそ自分の存在の現実を打ち立てねばならないのだ。

 このことはいかなるものとも関係ない。

ペソアにはどこか唯我論的なところがある。自分の感覚主義とでもいうのだろうか、そんなふうに感じる断片がある。

 

 倦怠は無気力な人たちの病気だとか、有閑人たちの病気だとか言うのをよく耳にする。しかし、この魂の疾患はもっと微妙なものだ。元来、その傾向のある人が罹患するのであって、よく働く人や働くふりをする人(この場合、どちらも同じだ)のほうが、ほんとうに無気力な人より、かかりにくいわけではない。

 最もたちの悪いことは、内面生活の素晴らしさ(そこには本物のインドや未知の国が存在する)と、日常生活の卑俗な面――たとえ卑俗ではなくても――とのあいだの落差なのだ。無気力という言い訳がない場合、倦怠はより重くのしかかる。行動力に富む人びとの倦怠は最悪のものだ。

 倦怠とは、なにもすることがないという不満から来る病ではない。むしろ、もっと重症なものであって、なにをしてもしょうがないと確信している人の病なのだ。そうであってみれば、するべきことが多ければ多いほど、直面せざるをえない倦怠もより深いものとなる。

ペソアの言う「倦怠」を、より現代的に「抑うつ」などと言い換えていいものかどうかはわからない。この断章には続きがある。

いったい私は何度、自分がこんなにも苦労して書いている本から、世界全体で空(から)になった頭を持ち上げたことだろう。いっそ無気力であって、なにもせず、なにもできなければどんなによかったしれない。そうだったなら、この現実の倦怠を味わうこともできただろうから。私がいま感じている倦怠には、休息もなければ、高貴さもなく、存在にたいする嫌悪感の混ざった快感もない。私がなさなかった行為の潜在的な疲労ではなく、ただ、なしてしまったあらゆる行為の、巨大な消滅だけがあるのだ。

ペソアの倦怠。なしてしまった、書いてしまったことによる倦怠。それは書いてしまったことによるなにかの消滅。それはなんだろうか。

 

私の場合、書くことは身を落とすことだ。だが、書かずにはいられない。書くこと、それは、嫌悪感を催しながらも、やってしまう麻薬のようなもの、軽蔑しながら、そのなかで生きている悪徳なのだ。必要な毒というのがあって、とても繊細な、魂という材料でできている。われわれの夢の廃墟の片隅で摘まれた草や、墓石の脇に留まっている黒い蝶や、魂の地獄のような水のざわめく岸辺でその枝を揺する、淫らな樹々の長い葉っぱで。

ペソアにとって書くこととはこのようなものであったのだろうか。だがしかし、それがどうも完成に向かわないところがある。実際にこの本にしたって、だれかがペソアの残したものをつなぎあわせたものだ。

 

 幸福な過去、その想い出だけが私を幸福にしてくれる。現在は、なんの喜びももたらさないし、なんの興味もないし、いかなる夢も与えてくれない。そこで、この現在とは異なる将来や、この過去とは異なる過去を持てるという将来を夢見て、あるいは仮定して、かつて生きたことのない楽園についての意識を持った亡霊として、生まれるという希望を持った死産児として、自らを埋葬する。

 ひとつの自分として苦しむ者は幸いである。分裂とは無縁に苦悩に苛まれる者、不信仰のうちですら信じる者、留保なしに陽溜まりに座ることができる者は幸いである。

ペソアは夢見る人でもある。ダンセイニ卿のようにかどうかはわからない。そして、分裂する人である。過去を見る人、過去に求める人である。それを郷愁(サウダーデ)というのかどうかしらないが。

 

人生は、人生の表現を駄目にしてしまう。もし大恋愛をしていたなら、私はけっしてそれを物語ることはできないだろう。

ペソアの書くだれかの書く「私」にはご用心。だがしかし、これもそうなのではないだろうか。いや、少なくともそういうタイプの人間はいるのだろうと思う。たとえばおれはどうかというと、どうなのだろうか……?

 

倦怠とは、世界に飽き飽きしたことであり、生きていることの居心地の悪さであり、これまで生きてきたことの疲労感なのだ。倦怠とは実際に、物事の増殖する虚しさを肉体的に感覚することだ。いや、それ以上だ。倦怠とは、別の世界にたいする不快感ですらあるのだ。そして、そんな世界が存在するかは関係がないのである。生きなければならないということの、たとえ別人になったとしても、たとえ別の物質になったとしても、たとえ別世界においてであろうとも、生きなければならないということの居心地の悪さなのだ。倦怠とは、疲労だが、それは昨日の疲労とか今日の疲労ではなく、明日の疲労、そして、もし永遠が存在するのなら、永遠の疲労、あるいは永遠が虚無のことだとすれば、虚無の疲労である。

ペソアの倦怠、疲労というのは、かなり極まっている。おれも生きていることに居心地の悪さを感じ、人間の人生向きに生まれてこなかったことに苦しみ、つねにうんざりしている。しかし、そんなものも宝くじが当たれば消し飛んでしまうようなことであって、それはおれのかかりつけの精神科医も認めるところだ。ところがペソアの倦怠、疲労は別人になったとしても続く、生きることそのものへの不快なのだ。そこまで徹することができようか。いや、しようとしてしていることではない、与えられてしまった生というものの根本的な疲れだ。生まれ生まれ生まれ……。

 

――すべてを延期すること。明日やってもかまわないことをけっして今日やらないこと。

 今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。

――これからすることを決して考えるな。それをするな。

ペソアの「うまく夢を見るやり方」。明日できることは明日にしろ。よく言われることである。ダメ人間の言いそうなことである。そして、おれも明日でいいことは明日やればいいと思っている人間である。おそらく、かなり低いレベルの、現実的な問題について。ペソアは徹底してやらなかった人間なのかもしれない。やらないことをやった。そして、残した。残したものをだれかが見つけた。このような倦怠と虚無に満ちた人を紙幣の顔にするポルトガルという国にすら興味が湧いてくるではないか。もっとも、おれも決して行われなかった旅をするたぐいの人間だ。現実のポルトガルに行くこともないであろう。

 

なんとなく秋めいたある黄昏どきに、私はこの旅に出発した。けっして行われなかった旅に。