腰と精神

腰を据える、本腰を入れる、腰砕けになる……腰にはそんな慣用句がある。おっさんになって腰をやってしまって、あらためて「人間、腰よな」などと思う。なにせ「にくづき」の「要」だものな。

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年のはじめから、腰痛になった。四十路のはじまりの年としてはふさわしいかもしれない。

黙っていても、なんか痛い。角度を変えるとかならず痛い。「ちょっとあれを取ろう」とか、「これを拾おう」とか、「洗面台で手を洗おう」とか、そうするたびにいちいち痛い。たいして強いものではないとはいえ、痛みが予告されているというのは嫌なものだ。まったくやれやれだ、と、いまこの瞬間伸びの一つでもしようなら、それはそれで痛い。

なので、痛くないポジションに固定するのが最善策となるのだが、それはそれで肩や首に負担がかかる。前かがみになるとけっこう痛いので、スクワットのように足を曲げる。面倒だ。

まあ、人間、このような痛みを、老いていくごとに身体の各部に抱えていくことになるのだろう。

整形外科の待合室を思い出す。整形外科だからだろうか、ドアが開きっぱなしで、話し声が完全に聞こえるのだ。最初の患者さんは老夫婦で、奥さんの腕の骨折の予後がよくないという話だった。医師は丁寧に説明して、レントゲン写真を解説し、この段階では取り立てて治療する方法はなく、できるだけ使わないほうがいいと述べていた。長い説明のあと、夫のほうが「手術した病院ではこんなに説明してくれなかったので、大変ありがたい」というような感謝を述べた。

次の患者は一人の老婆だった。どこかわからないが、神経痛のような何かを抱えているらしい。医師は「病院では、お薬を出すか、大きな病院で手術をするしかないのですが、手術はあまりすすめられません」というようなことを言った。老婆は薬というものにたいへん不信感を抱いているようで、薬だけは飲みたくない。だが、痛いのをどうにかしてほしい、その一辺倒。その一辺倒を三回くらい繰り返した。「岩盤浴って効くんでしょうか?」、「私としてはわからないとしか申し上げられません」。

今、読んでいる本に、精神科のいち分野として精神皮膚科のようなものがあると書いてあった。ニキビなどはかなり人間の精神、若者の精神に影響があることがわかっており、それに対応するためらしい。

とすると、整形外科についても整形精神外科とでもいうものが必要だろう。というか、あらゆる医科について精神科がつくべきなのであろう。老い全般についての、老年精神科というものも必要かもしれない。もちろん、人的、金銭的、時間的リソースの問題から不可能なことではあろうが、そのケアがなさすぎることによって、疑似科学、疑似医療がはびこる弱点になっているのかもしれない、などと思う。

おれだって、レントゲンとって「はい、問題ない、数日で治る。おしまい」と言われ、数日で治らなかったらパワーストーンで腰痛を治そうとするかもしれない。パワーストーンに頼るまえに、とりあえず腰には治ってもらいたい。