snjpn.net松本人志は作品作りについて薬物使用を「ドーピング」としたらしい。
www.sponichi.co.jp太田光は「良い面と悪い面」と言ったらしい。
このあたりの価値判断、基準というものは、とりあえず置いておく。おれもまだよくわかってないので。
しかし、いずれにせよ、ドラッグを決めたら決めたで影響がある、という認識は共通している。
すなわち、それはオラフ、違う、シラフではないということだ。そこには、ナチュラルな人間がいろいろな表現、芸術をするべきだ、あるいはするに越したことがない、という志向がある。
だが、素面の人間、ナチュラルな人間とはなんだろうか。おれにはそこが気になる。
これは、おれの身体というものから思うに至ったことである。おれは、双極性障害を患っている。オランザピン(ジプレキサ)を飲まなければ、一方で酷い抑うつ状態、身体がまったく動かないほどの鉛様麻痺、スローモーションでしか動けない倦怠に陥り、一方で、頭ばかりがカーっと空回りし、なにも手につかない躁状態にもなる。はっきり言って、社会生活というか、生活すら送れないレベルに陥る。
したがって、おれがこうやって会社に出て、昼休みにこうやって読める日本語を打ち込んでる(読めるよね?)のも、オランザピンのおかげなのである。
さて、問題です。おれはいま、素面なのでしょうか?
それがわからない。ナチュラルな身体、脳というものを求めてオランザピン(および抗不安剤二種類、睡眠薬一種類)を取り除いたら、それがおれの素面なのだろうか。おれはドーピングして生きているのだろうか。抗精神病薬など飲まなくてすめばそちらの方がよいだろうが、飲まなければならないおれは不自然な状態、なのであろうか。
もちろん、おれの双極性障害II型などは、まだまだ軽いほうだ。世の中にはもっと重大な症状が出る精神疾患者もいるだろうし、脳ではなく内臓や身体の病気、障害もたくさんある。その中で、薬のおかげで一般人に近い状態になれる場合、それが自然な身体なのであろうか、脳なのであろうか。それとも、自然であることを志向すべしという立場からは、病や障害に苦しんでいるものを望ましいとするのであろうか。
もっと軽い方へ持っていく。たとえば、今おれがかけているメガネはどうなのか。おれはこのメガネというドーピング機器がなければ、これまた社会生活を送れない。相当なハンデになる。視力が良いことに越したことはないが、そうではない人間がメガネをしている。これは素面なのかどうか、自然な身体であるのかどうか。
もちろん、眼鏡をかけた小説家が書いた作品を「ドーピングだ」という人間はいない。いや、たぶん、いない。けれど、ドーピング状態の人間、表現者というものがあるとして、どこで線引きをするのかは、なにかグラデーションがある。
もちろん、「その時代の、その国の法律に拠るべきだ」というのは一つの答えだろう。おそらく、松本人志もそのように考えているのだろう。だが、「その国」であっても、時代が違えば、ということもあり、本当のアブサンを飲んでいた連中、ヒロポンを愛好していた連中、どうなるのか。あるいは、非合法とは言えないけど健康的でない……ニコチン、アルコール、昔のブロン、そんなのはどうなのか。
なかなかに難しい。と、冒頭で「とりあえず置いておく」とした話に帰ってきてしまった。
表現にレギュレーションがあるのか?
スポーツにはレギュレーションがある。なくてもいい、という人もいるだろうが、とりあえず、スポーツにそれはあったほうがいいし、そうやっていくよ、ということになっている。
とはいえ、そんな中でもセメンヤ選手のように、本来の身体に対して「女性か男性か」で問題になるようなケースが出てくる。人間の自然な身体そのものが、そもそもに曖昧なものであって、レギュレーション通りに作られているわけでもない。
では、表現は。その時代のその国の法律に違反すれば、当人はそれに応じた処罰を受ける。では、かれの表現は、作品は。おれはどちらかというと、作品の罪を問うのは誤りではないか、という立場にある。あるが、その立場をうまく説明できるだけの理屈を持っていない。ただ、それを説明するにあたって、やはり素面の人間とは何か? というのは避けて通れない問題のように思える。今のところ、異常、いや、以上。