映画感想文『天気の子』

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美しい娘の物語は、年とった人たちの心にも、豊かな期待を起こさせるものと見えて、このわたしどもの国にも、そうした話がたくさん残っていて、幼い耳へ順ぐりに、吹き込まれ吹き込まれして参りました。これも、そう言う噂の一つなのです。

「神の嫁」折口信夫

 

「……なんだっけな、マーだったかな、マー君? いや、違う? ムーのあんちゃんよ、ようわしを見つけたもんよな。ようわしの話を聞きにきてくれたもんよな。そうよ、わしこそが、この国の天気を変えてな、国の形を変えた張本人よ。おう、ちょっとまってくれ、準メーンの発走だ」

 

ずぶ濡れになった、色とりどりの勝負服を身にまとった小さな小悪魔たちに導かれ、泥水を跳ね上げながら馬たちがゴール板を通り過ぎていった。老人は、紙の馬券を握りつぶしてぽとりと落とした。

 

「まったく、しょうもねえなぁ……。おう知ってるか、今の府中で走ってる馬の、八割はガリレオいう馬の血を引いとるんじゃ。残りの二割はイエーツ言うてな。いや、今日は、競馬の話じゃなかったか、ミーのあんちゃん、天気の話か。天気言う手も、旧東京は半世紀続いて雨じゃ。この府中もな、大昔は今みたいな馬場で不良言うちょったが、今ではこれが稍重いうてな。ああ、競馬の話はいいんか……」

 

「……そいでわしは銃を構えたおまわりに囲まれたわけだ。腹くくっての、盲滅法に引き金引いたったんよ。したら、年寄りのおまわりのドタマと、若いおまわりのドテッ腹に命中しよってな。年寄りのほうは即死でな、その隙に、まあわしは走ったさ。駆け上ったさ。さっき言うたろう、ビルの屋上に……メーのあんちゃん、鳥居って知ってるか? 知ってるんか。その鳥居をくぐっての、わしは空の上にいた。空の上であの子がおっての、わしは二度と離さんいう覚悟で、片手のワッパの片方を、あの子の腕にかけたんよ。もう二度と離さん思うて、そうした。わしらは雲の龍を見た、水の魚の群れを見た。わしは確かにあの子を選んだ。世界なんて、どうでもええ思うた。そんなこと、あんちゃん、思うたことあるか。わしにはある。そう言える。わしが誇れるもんはそれだけなんよ」

 

雨音。バニラの小舟が競馬場の外を通るのが聴こえた。

 

「……その後、わしが最初に聞いた音は、チェーンソーでワッパ切り離す音だった。声をあげようとしたが、すぐにおまわりに殴られて、目も見えん、何も聞こえん、あの子がどうなったかもわからんかった。おまわりは仲間殺されると殺気立つんや、覚えとき。で、気づいてみたら少年刑務所におった。外はずっと雨だった。だから屋根があるんでありがたかった。何年いたかも忘れちもうた。なにせ、ずっと雨だったし、ずっと寒かったからな。刑務所から出たあとのことは、まああんちゃんには興味のないことだろう。わしはまた新宿に流れ着いた。古いビルで雨宿りしとったら、『おう、おまえ』と声かけられた。だれかと思うたら、わしが撃った刑事やった。『罪、償いましたけん、かんべんしてください』言うたら、『ええから、ちょっと顔かせ』言う。連れて行かれたのは警察署やなくて、組の事務所やった。なんでも、わしに腹を撃たれたあと、警官を辞めて、極道になったいうことやった。『おまえの度胸はおれの腹がよう知っとる。どうだ、うちで働かんか?』。わしには行くあてもなかったから、そこにお世話になった。わしはよう働いた。デリヘルのな、漕ぎ手から初めた。手コキボートいうて馬鹿にされたが、わしは必死に働いての、スカウトもやったし、最後には何店舗か任されるようになったいうわけや……」

 

老人は、私に話しながらも、競馬新聞から目をそらさなかった。

 

「……ちょっとは羽振りもよくなったし、時間もできた。そこでわしはまた、あの子に会える方法はないか探った。明け方の街も、桜木町も探した。でもおらんかった。なにせ、あれは天気の神様の子じゃから、普通に探してもいかん思うた。だから、遠くの村から、なんやわいせつな石膏に水を垂らして占う男だの、特産品の小豆を地面にまいて占うおまんいう女衆呼んだりしての、おう、マー君、こういう話に興味あるんか。まあええ、でも、結局会えなんだ。商売の方も、遷都で台無しになったからの。第二新東京市、昔は松本いうたが、そこにみんな行ってしもうた。それでも歌舞伎町はかわらん思うて、兄貴とわしらは残ってみたもんだが、やっぱりみんな雨にはうんざりしとったんだろうな。一人減り、二人減り……、やがてみーんないなくなってもうた。今、この東京、旧東京やったか、まだしがみついてるのは、大昔の東京に未練のある人間か、雨降りの好きな人間だけっちゅうわけや。そして、わしはここをこないしてしもうた張本人じゃけ、ここにおらないかんのじゃ。責任なんてむずかしいことは言わん。ただ、ここにおらないかんのじゃ。半世紀の涙雨じゃ。それでな、今でもあの子と会えるんじゃないかいう……まあええ、そんなことは。それより、約束の取材費、取材費今すぐくれんか、あんちゃん!」

 

私は老人に二枚の紙幣を渡した。男はAI対面式口頭馬券発売窓口に向かって走りながら、「ハナザーアヤネルの単勝二万、十二番、単勝二万!」と叫んだ。

そのときだった。コンクリートに、水田のような馬場に打ちつける雨が、反転して、空に舞い上がった。そして、五十年昔に流行った、バンド式のロック音楽というものが流れてきた。それは私の見た夢だったのかもしれない。あの老人が見た夢と同じように……。

 

私は、府中から出た南部船に乗ってこの記事を書いている。

東京は、今日も雨。

とくに言うことは、なし。

 

 

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小説 天気の子 (角川文庫)

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