ホモ・バクチスルデヤンス

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またまたBooks&Appsさんに寄稿させていただきました。

とりあえず、読んでください。

とりあえず。

blog.tinect.jp

読みましたか?

読みましたね?

どうですか、実にしょうもない話だ。いい歳した大人が、道を歩いていて外車の数を予想して、数えている。どうなってるんだ、まったく。

が、この他愛ない遊びだって奥深いのだ。そうだ、われわれは、ホモ・ルーデンスなのだ。

772夜『ホモ・ルーデンス』ヨハン・ホイジンガ|松岡正剛の千夜千冊

 ホイジンガが遊びに注目したのは、遊びが本来の生の形式ではないということにある。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであった。
 では、どこからどこまでが遊びなのか。ゲームを開始したときからか、仕事が終わったときからか、社会の秩序から解放されたときからか、自分のムダに気づいたときからか。
 遊びがどこから始まるかと問うのは野暮になる。遊びは最初の最初から始まっているからだ。あえていうのなら、遊びは何かのイメージを心のなかで操ることに始まっているというべきなのだ。だから「遊びは本気なものではない」とは言ってはならない。そう言ったとたんに、遊びを相手にすることはできなくなっていく。遊びを生の形式から区別しようとしすぎるのも、遊びを逃がすことになる。
 こうして遊びとは、遊び以外のあらゆる思考形式からも自由に遊びをまっとうできるような、そういう何かの行動なのである。しかもその行動は、つねに一時的な自立領域をつくれるから、なんらかの時間的制約や空間的制約を受ければうけるほど、遊びらしさを発揮するものなのだ。

……ということだ、わかったか。おれはわからん。しかし、「遊びは文化より古い」というのだ。悪くない。

が、おれはヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」よりさらに古いものを想像する。それは、「博打する人間」だ。ホモ……ラテン語がわからない、まあいい、ホモ・バクチスルデヤンスだ。

おれの「外車カウントゲーム」は賭けの要素がある。多いのか、少ないのか。おれが行動することはない。ただ、頭の中で考えて、ある数にベットするだけだ。賭ける人間。

人間というものがもっともっと野生にあって、そこでなんか野獣に襲われて、さて森の茂みに逃げるか、川に飛び込むか、そういう局面があった。そこに賭けが生じる。あるいは、獣の狩りをしていて、このまま待ち伏せするのか、場所を移るのか、それも賭けだ。

人間というものは、賭けて、賭けて、ここまで進歩してきた。いや、賭けて、賭けて、賭けて、勝ってきた人間のみが遺伝子を残すことができた、とも言えるだろう。

というわけで、おれが何も実利のない賭けをして遊ぶのも人類処源の名残であり、馬に賭けるのも人類進歩の証だと言えよう。博打こそが人類の曙にあったものである。さあ、皆も原初に遡ろう。とりあえずは土曜の東京メーン、早春ステークス。いいじゃないか、人類の早春。

ルメールの乗る人気のパルティアーモに賭けるもいいし、無印、ハンデ51kg、鞍上江田照男ディープインパクト産駒のパルクデラモールに賭けるも自由だ。さあ、博打するんだ、博打の博は内田博の博、ならばギャラッドを買ってもいい。好きにしろ。おれはそうする。

早春ステークス(3勝クラス) 出馬表 | 2021年2月6日 東京11R レース情報(JRA) - netkeiba.com