自分の内と外とは? 『記憶する体』を読む

 

記憶する体

記憶する体

 

おれが「身体」と書いたら、「からだ」とルビをふるのが正しいと言っておきたい。おれは身体について興味がある。これだけ書くとへんな感じだが、なんというか、自分も含めた人間というものの存在、境界、そんなものに「身体」というものはでかいよな、と思うのだ。昔、「唯脳論」なる言葉がはやって、それも一つの事実ではあるとは思うけれど、人間やっぱり身体あってのものよな、と思うことも少なくないのだ。脳はやはり人間の核と言えるかもしれないが、一方で脳もひとつの臓器にすぎない。そんな感じ。

で、本書『記憶する体』である。さまざまな身体欠損などの障害を持った人の語り書きである。あとがきで著者はこう述べている。

 ……必ずしも、記憶の蓄積が大切だ! と言いたいわけではありません。むしろ、現にさまざまな当事者の体で起こっている、自然と人為のさまざまな混ざり合いについて記述することが狙いです。

 それゆえ、本書は多分に、「二十一世紀初頭の、日本の科学技術の状況を背景にした、体の記録」になっている可能性があります。

 もしかすると、三十年後の人類がこの本を読んだら、まるで白黒テレビを見るかのように、ノスタルジーを感じるのかもしれません。「へえ、三十年前の人類の体には、こういう感覚があったのだなあ!」。これは、本書がいつか考古学的な資料として読まれる可能性です。

 p.274

中途失明者のイメージ、幻肢感、幻肢痛、下半身の感覚が無い人の感覚……。たとえば、先天的な全盲者の読書家にとっては、「店の扉をあけると、カウンターのほかにテーブル席が五つあった」という記述について、「細かい描写だ」と思うそうなのだ。一方で、椅子の座り心地のような触覚については記述が足りないという。

また、幻肢痛に悩む人にとってのVRによる治療。正確に治療と呼べるかはわからないが、VRによる体験によって、しばらく幻肢痛がおさまるといったこもあるという。

脳に近い話では、認知症の人がどれだけ意識的に生きる必要があるか。

自然と、人為。

興味深い話が詰め込まれた本である。とはいえ、本書の著者は脳科学者でも医学者でもない。専門は美学という。関係ないけど、おれも大学の美々の中退者である。というわけで、そこまで医学的な専門用語も出てこない。ただ、当事者の意識、認識を書き留める。なるほど、この時代の身体に関する記録であるかもしれない。

いきなりアニメの話をする。今期、おれは『レビウス』というアニメを見ている。

アニメシリーズ 『Levius レビウス』

改造した義手をまとい、人体と機械を融合させて戦う究極の格闘技「機関拳闘」に没頭する少年・レビウスが、その才能を開花させていく。

少年・レビウスは戦争に巻き込まれて片手が義手である。むろん、スチームパンクサイバーパンクのSFではある。が、作品中で本来の片手について「義手にしちゃえばいいのに」というようなセリフがあった。おれはそれにちょっとドキッとした。

機械の身体の方が、ある分野について自然の身体より優れてしまう可能性はある。というか、それは一つの現実だろう。おれはそれについて昔、オスカー・ピストリウスという義足のランナーを知ったときに考えたことがある。

goldhead.hatenablog.com

 

日常生活を送るには不便な、それでいて陸上競技に最適化された義足というのは、いったいなんなのだろうか。それはある意味「フォーミュラ」ではないのか。それはもう、人間の「自然」(もちろん、人によって千差万別だが、とりあえず多数の人間が持つそれとして)の足より、走るという行為においてはすぐれてしまっているのではないか。そんなことを考えた。

このさきにあるのは、「機械の身体」を理想とする考え方だろう。それは「自然」の人体にとっては不可能なことを可能にするかもしれないし、あるいは不老不死の実現かもしれない。

で、そこで立ち返って、「自然」の身体とはなんなんのか。そんなことを考えるのに、本書は一つの材料になるだろう。そんなふうに思った。

 

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身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)

  • 作者:三浦 雅士
  • 発売日: 1994/11/02
  • メディア: 単行本