10年経とうと無能者の下流人生になにも変わりはない

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

f:id:goldhead:20211015124740j:plain

10年前のおれは勤める零細企業の倒産に怯えつつ低賃金の労働をしていた。

10年経ったのおれは勤める零細企業の倒産に怯えつつ低賃金の労働をしている。

10年後のおれはなくなってしまった零細企業とともに職を失い行きているかどうかわからない。

 

金を稼ぐ能力というものだけが、人の優劣の全てであって、揺るぎない事実である。これから目を逸して、なにかべつの価値を述べるものは悪意ある有能者がおまえらを騙そうとしているだけだ。そうやって金を稼ぐ能力のある有能者は無能者を騙し、奪い、さらに金を稼ぐ。無能者は金を稼げず、生活の選択肢を奪われ、思考の選択肢も奪われ、人生になにかを選ぶという機会もなく、這いつくばって、惨めな思いをして、長い苦痛を味わって、誰にも顧みられなく死ぬ。

無能者は、ただそれだけのために生まれてきてしまった。そこになにも期待するものはない。希望はない。金を稼ぐ能力のある人間からは嫌われ、見下され、あざ笑われ、いいように使われ、収奪されるだけだ。かといって無能者は金を稼ぐのに必要とされるであろう要素の一つであるコミュニケーション能力もないし、無能者同士で連帯することもできない。連帯ができるのは有能な人間だけである。無能者はあらゆる集団からつまはじきにされて、一人で重荷を背負い、やがれ潰れて死ぬ。

金を稼ぐ能力はおおよそ生まれつき決まっている。生まれた家の財産で生きるというのも能力といってよい。換金できる抜きん出た頭の良さや、技能はもちろん能力だ。それに、人を騙したり、騙しても罪悪感がなかったり、暴力をふるうだけの力があるのも金を稼ぐ能力だ。そこに誠実さや真面目さといったものはなにも関係ない。法やモラルを守って生きてえらいと言われるのは、金を稼ぐ能力がある人間がまっとうに生きてはじめて言われることであって、無能者は善をなす能力もないし、悪に手を染める能力もなく、だれにも褒められず、無能ばかりを責め立てられ続けて死ぬ。

金を稼ぐといっても、大富豪、いや、富豪に、富裕層になるほど稼がなくてもよい。自分ひとりの衣食住を賄えればそれで十分に金を稼ぐ能力があるといってよい。おれのように赤字で借金のある零細企業にすがりついて、状況を好転させる力もない人間に、生きる資格はない。価値もない。他人に迷惑をかけ、社会の富を増やすどころか食いつぶしているだけである。もちろん誰かと生活することはできないし、子供を作って国の存続に寄与することもなく、この劣った遺伝を残すことなく死ぬ。

無能者は人に好かれることもなく、子供のころからみなに嫌われ、いつか好転するかもしれないと思いつつも、無能がゆえに変化する方法もわからず、努力すらせず、いつまでも孤独の中にあって、いざというとき頼れる人間ひとり作れない。人脈を作れることも金を稼ぐ能力の一つであって、生まれつきそれに向いていない人間というものがいて、それが金を稼ぐことのできない無能者であって、道に倒れていてもみな通り過ぎていくだけで、そのまま死ぬ。

金を稼げないということは、働けないということであり、それは悪そのものであって、資本主義社会においても、共産主義者社会においても無価値とみなされる。価値にある人間にどうやってなったらいいのかわからず、努力する能力もなく、他人のおこぼれで糊口をしのいで、一度の肯定感も味わうことなく死ぬ。

無能者はいつまでも無能者であり、無能ゆえにいつまでも無能者でしかなく、変わることはない。ただし肉体だけは老いていき、能無しはさらに動けなくなってさらなる能無しになる。最初から決まっていたことだし、いまさら何を取り返すこともできないし、もともと持っていないのだから取り返すなにかもない。何かをはじめるということも無能で金がないから不可能だ。おれは精神障害者なので、かりになにかをはじめようと思っても、鬱の波が来てはすべてをさらっていって何も残らない。賽の河原で石を積む気力はない。金を稼ぐ能力のない無能者はなにも変わらず死ぬ。