三角関数を知らないおれがバカにされない領域は現代日本に存在するのか?

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寄稿いたしました。読んでください。

要するに、数学と英語ができなければバカにされる世の中で、数学と英語ができないおれはバカだろうという話です。

というわけで、さんざん語ってきたとおり、おれは数学ができない。というか、算数で複雑骨折してしまって、そこから追いつけない。どうやって高校を卒業できたのかいまだに思い出せない。

というわけで、今話題の「三角関数」も、文字列は見たことがある、というくらいのもの。当然、それがなんなのか、まったくわからない。「ねりきり」という言葉を今日初めて見て、それがなんなのかまったくわからないのと同じくらいわからない。もっとも、「ねりきり」は検索してみて「ああ、あれか」とは思うが、三角関数を検索する気にすらならない。

しかしなんだろう、「競走馬の能力の方向性は一定ではない」という言葉がある。言葉があるというか、亀谷敬正という競馬評論家がよく言っている。

競馬を知らない人には「走るだけなんだから、足が速ければいいんじゃないの?」というだけだろうが、競馬のかけっこにもいろいろな条件がある。芝の上を走ることもあるし、砂の上を走ることもある。土と表現したほうがいい場合もあるし、AWというものもある。走る距離だって、人間の陸上競技ほど多様ではないにせよ、3倍くらい違う。

というわけで、砂の短距離走で最強の馬が、芝の長距離走でも最強という話は、タケシバオーくらいでしかありえない。現代競馬ではほとんどないといっていい。そして、芝といっても、スピードの出る馬場と出ない馬場、あるいは右回りと左回りなど条件も多様であって、その多様性とマッチする馬、あるいはマッチする血統の馬を探すところがおもしろい。

……と、競馬の話になると長くなるが、人間にも同じようなことは言える。競走馬は走るだけだが(たまにジャンプする場合もあるが)、人間のやることの範囲は広い。世界で一番重いものを持ち上げられる人が、世界で一番速く走れる人ではないだろうし、世界で一番計算を解くのが早い人であるという可能性も低い。

人間も、持って生まれた身体能力というものもあるし、文化資本を含めて賢さもあるだろう。

そして、どうも上の本によると現代の日本という馬場で金を稼いでバカにされないで済むためには、数学と英語が必要だという。

これは困った。困ったので、違うレースに参加したいところだが、逃げ場はあるのだろうか。たとえば、おれは手先が器用でもないし、非力なので肉体労働もできない。英語はもちろん、外国語もできないし、日本から逃げるだけの方策はなにもない。

というわけで、なんとか向いていないこの現代日本のデスクワークで食っているのだが、さんざん書いてきたように会社は赤字だし、生きる価値がないと社会から判断されている。

とはいえ、どこかに救いはないのだろうか。どこか、ちょうどおれの能力の方向性に合った領域、職種などがあって、「ここならばおまえは人の役に立つので、生きていていい」となる可能性はないのだろうか。

ないのだろうなあ、たぶん。そして、万が一あったとしても、おれにはさらに致命的な欠陥があって、努力ができないのである。努力というものをした覚えがない。ほとんど、母親の股の間から飛び出てきた初速だけで生きてきた。当然、落ちる一方だ。まだまだ落ちる。どこまでも落ちる。落ちて潰れて死ぬ。羽ばたこうにも羽ばたく羽もない。第二段ロケットもついていない。まったく、悲惨だ。今日の午前中も抑うつで伏せっていた上、ようやく起き上がれて水を飲んだら胃液が逆流してきた。

ああ、抽象的なものの考え方、論理的な考察、語学のセンス、身体能力、正常な精神、なにもねえ。おらこんな人いやだ。だから、酒を飲んで思考を吹っ飛ばすし、もっと即物的な数字のことばかり考える。ああ、おれは数字は嫌いだけれど、ECサイトでのアクセス数と購入者の関係とか、売上のどれだけの広告費に突っ込むかとか、そういう具体的な話は好きだ。そして、なにより馬券をいくら買っていくら返ってくるかという皮算用が大好きだ。さあ、オークス、いまのところ順当にサークルオブライフ本命と考えているが、どうやって賭けてやろうか。地面への悲惨な衝突が早くなるとしても、酒と競馬だけはやめられない。

 

さて、帰るか。