
犬は一匹もいなかった。どこにだって犬はいやしない。犬を見たことがあるかと問われて、どう答えていいかわからない。人間の本性ってやつは、実にみじめったらしくて、情けないものなんだ。それをわかっているやつだけが、この世で不幸を嘆いてみせて同乗を買う。最近ではよくわからないやつになんとかいう障害の名前をつけて分類しているらしいが、根っこは一緒なんだ。
とつぜん寒くなった。おれたち競馬ファンはレースで季節を感じる。もうアルゼンチン共和国杯なんてのは嘘だろう。まだ秋は始まったばかりじゃないのか。今年のおれの感覚なら、今から毎日王冠と京都大賞典をやってもいいくらいだ。やり直してもいいじゃないか。それにしても、今年の天皇賞・秋を勝った馬ってなんだっけ。どうやったら馬の名前を覚えられるか忘れてしまった。昔、カネツクロスという馬がいた。おれはカネツクロスが大好きだった。それだけだ。
体調も急に悪くなって、今日は午後まで寝込んでいた。おれが会社に行くころには、学校を終えたガキどもが下校というやつをしていた。ふだん気づかないものだが、ときどき違う時間の街にいると、存在しないと思っていたものが存在している。それにしても、こんな街なかで過ごす小学生時代というのはどういうものなのだろう。おれにはよくわからない。ただ一つわかっていることは、学校が地獄だっていうことくらいだ。すべて滅んでしまえばいい。
本当の犬を見たことがあるかとか、そういう話ではないんだ。秋がすっかりなくなってしまったというのも、なにか本質について話しているわけじゃない。たとえば地球儀が一つあって、その一点を指さしたとき、何人の人間を押しつぶしているか考えたことはあるか? 巨大な指が、空から降ってくる、その恐怖を。想像力だけが人間だ。想像しないやつは、人間風のポタージュかなにかだろう。シェフの気まぐれで作られる。残されて捨てられる。だから人類は悲しいって、おれは秋の夕暮れに言いたいが、秋はとっくに終わってしまって、それでももうアルゼンチン共和国杯の週だったんだ。馬券はアメリカも地方もさっぱりだ。へどが出るほど負けて、それでも来週を待っている。おれたちは、ただ不幸なるものだけを待って、やはり不幸になったと喜んで、そのまま暗いところへ歩んでいく。
吹く風は冷たい。あたたかい酒でも飲むか。酒があたたかいということもあるなら、人間の心もあたたかくていいような気もするが、そんな人間は十万人に一人いればいいほうだ。みんなお互いにたたかいあって、死んだら犬に食われるだけだ。