義肢が「当たり前」どころか「かっこいい」とされる時代はくるのか?

寄稿いたしました。

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「メガネ化」はおれの考えた言葉。福祉器具がメガネのように手軽で、カジュアルになることを指す。メガネは視力という人間の大きな能力の欠陥を矯正するわりに、普通の近視では保険も効かない。視力は治せて当たり前になっている。

 

それどころか、だ。メガネはファッションにすらなっている。伊達メガネという言葉ができたのは明治のころだ。そのころから、ファッションでメガネをかけているやつがいた。いまでもいるだろう。たくさんいるだろう。おれはコンタクトレンズの利便性についてよくわからないが、もしそちらがまさっているなら、あえてメガネを選んでいるおれも、ある種の伊達ということになる。メガネを「かっこいい」と思っている。

 

上の記事ではその先の優生思想的な懸念のようなものを書いたが、べつの方向で、「かっこよさ」の追求もあるだろう。メガネはファッションアイテムの一つになっている。本来は福祉的な器具であるのに。

 

となると、補聴器がかっこいい、義肢がかっこいい、そういう未来はあるのだろうか?

 

ありそうだ、というところだ。それはサイバーパンクをはじめとする多くのSFに見られる。そのような未来を描いている。『攻殻機動隊』をあげるまでもなく、身体のサイボーグ化がクールに描かれているものは少なくない。

 

それにもう、義肢を「かっこいい」ものとして表現しているモデルなどもいる。機能的にも、義足で走った方が競技的には速いタイムを出せる可能性が高い(その分、日常生活には使えないようだが、いずれ両用できるものも出てくるだろう)。

 

不足を補う器具が一般化し、一般化からファッションになりうる。そんな流れは、メガネ以外にもありうるだろうか。あるいは、われわれが着ている衣服なんてものもそうなのかもしれない。

 

が、『身体の零度』によれば、衣服も装飾品の延長ではないかという。寒いから着たのではなく、着たから寒さに耐えられた。原因と結果の取り違え。そんな話だったと思う。

 

 

 

『身体の零度』は、自分が身体について語りたくなるとき、一度は読み返したくなる本だ。近代について語りたくなるときも読み返すかもしれない。

 

「自然な身体」は近代の産物だ。それでは、現代から近未来において、またふたたび身体に加工を加えていくことは、人間が文明のはじまりのころに戻ったのか、べつにすべてが近代主義に覆われていなかっただけで続いてきたのか、あるいはべつの何かが始まったのか、見ていきたいところではある。

 

もっとも、サイバーパンクの世界がくるまでおれは生きていないだろう。残念な話ではある。