ネットでの情報の垂れ流しはコミュニケーションではないと思っていた問題

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という記事があって、おれがこのようなことを書いた。

 

goldhead.hatenablog.com

 

そうしたら、シロクマ先生からお返事あった。

 

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ふーむ。

 

また、おれはこちらについて返答のようなものを書く。このやりとりは「コミュニケーション」になるだろう、という気はある。気はあるが、おれのお気持ちを書いておきたいので、書く。

 

というか、もう喋った。

 

音声配信のほうが楽だぜ、という人は上の配信を聞いてもらって、以下の文章を読む必要はないかもしれない。

 

で、本題に入る。おれがXのスペースで配信していることを含めてこうおっしゃられる。

こういうのって、SNSやはてなブックマークでもよくあることじゃないでしょうか。コミュニケーション嫌い・人間嫌いとおっしゃる人が、実際にはオンラインメディアをとおして他人のいる空間に向かって他人がいる前提の振舞いを繰り返している、それも、結構な頻度でそれをやっているのを見かけるわけです。私は人間の動機付けについて、経済的なものも含めて必ず報酬があると想定するほうです。そして経済的な報酬を期待している場合も含め、人が他人のいる空間に向かって他人がいるという前提の振舞いを繰り返している際には、それはコミュニケーションと呼んで良いし、呼ぶべきだと思っています。

 

その「想定」というものに齟齬というか、感覚の違いがあったのだな、と。おれが元の元の記事で読んだ「コミュニケーション」というものは、もう完全に、同好の士がリアルで顔と顔を付き合わせて、話し合ったり、ゲームならゲームを一緒にしたり、なんなら酒を飲んだりという、そいういうものを自分は「コミュニケーション」と思った。

 

が、ネットの情報発信と、それに対する「いいね」や「スター」や「はてなブックマーク」までがコミュニケーションだとは思っていなかった。少なくともおれは思っていなかった。そういうところがある(「やりとり」なので「ですます」がいいと思うのですが、どっちつかずでご寛恕願いたい)。

 

それを含めてコミュニケーションだと言われると、「まあ、そうかもしれない」という気持ちにもなる。とはいえ、おれがそれを「コミュニケーション」だと思っていなかったのもたしかなことだ。

 

おれの発信するなにかに「いいね」や「スター」あるいは「ブックマーク」をつけてくれる人には申し訳ないことなのかもしれないが、どうもおれは一方的に情報を垂れ流しているつもりでいる。反応を受け取る受容体がないように思う。なんなら、Amazonの欲しいものリストから物品をお恵みいただいているのに、それを「コミュニケーション」だと思っていない。一方的な発信、それに対する天からのお恵み、そういう感じ。

 

でも、なんだろうか、おれはかつて、ブログというものは「少数の者への手紙」だと書いた。

goldhead.hatenablog.com

 

自分の日記を遡ってみたら、ネット(はてな村)でのコミュニケーションについても書いている。

 

goldhead.hatenablog.com

 

そうだ、おれの感覚としては、「ネットの引きこもり」、「ネットのぼっち」というところが実感だ。むろん、語りかけてくれる人もいるし、ここでは書けないなにかがあったこともある。とはいえ、おれはネットにおいて、一方的な発信者であるという意識が強い。

 

発信者、配信者、なんだかわからないが、おれが想定しているのは、かつてのマスメディアだ。新聞が何かを書いて発信する。テレビがなにかを放送する。いまの時代、というかインターネットというものが身近になった時代から、個人がそれをできるようになったと感じていた。最初は新聞のように文章と写真だけだったかもしれない。それが最近では、テレビのように動画を配信することもできる。えらい進歩だ。ただ、これについては、先日のチョコレートプラネット松尾発言とからめて、あらためて書きたいのでここまでにする。

 

というわけで、なんだだろうかというと、おれがしているのは旧来の(マス)メディア的な発信を一方的にしているという実感であって、コミュニケーションをしているという感覚はない、ということだ。たしかに、アクセス数ですらなんらかの返答であるとすれば、そうであろう。さすがに自分も、本当の0人相手にものは書けないし、音声配信もできない。それをコミュニケーションといえるのであれば、コミュニケーションであろう。

 

というか、おれのメディア感が古いというところはある。「公開する」ボタンを押した瞬間、「ポスト」のボタンを押した瞬間にコミュニケーションが始まっているかもしれないという感覚がない。おれが物心ついたころにインターネットが無かったというところによるかもしれない。

 

あるいは、おれが他人の反応を極度に忌避して、たとえばあるエントリーにはてなブックマークが集まっても、一日か、それ以上は間をおいてコメント見る、酒を飲んで酩酊した状態でコメントを見なければ耐えられない、という、その点はコミュニケーション弱者に違いないな、というところもある。

 

まあ、そんなところで、自分、黄金頭さんははてなブログ強者かもしれないが、コミュニケーションしている感じはないな、という感覚の違いあたりが浮き彫りになったというところでどうでしょうか。そんな感じです。