さて、帰るか(ファントム)

お互いにうんざりさせられるものを挙げていって、そのうちの二つか三つでも間違いだったなら満足するべきだ。

 

おれは月や星のことをよく知らない。月がどの方向から登ってくるかもよく知らない。月がどうやって満ち欠けするのかもよくわかっていない。生きていてそれで困ったことはない。女に「あの星はなにかしら?」ときかれたこともない。おれは困ったことがない。

 

ただ、おれはファントムを知っている。ファントムはつねにおれたちの周りにいる。それに気づくやつもいるが、気がつかないやつもいる。真夜中に気づくやつは少なくない。真っ昼間にファントムに気づくやつもいる。

 

昼下がり、午後のファントムはいつも余裕しゃくしゃくで、店の外の席でアールグレイなんか飲んでいる。おれはファントムの向かいに座って、店員を呼んだ。

「『今日のクラフトビール』を一つ」

「二種類ありますが……」

「苦い方にしてくれ」

やがておれの前にはいい具合に冷えたビールが運ばれてきた。いつだって昼下がりのビールは最高だ。おれは少しビールを口にする。いい具合の苦さだ。

 

おれはファントムに向き合って言った。

「今日こそはおまえにいいたいことがある。わかっているのか」

ファントムは空虚な目をしてなにも語らない。

「おまえがそういう態度なら、おれにも考えがある。知っているんだろう」

ファントムはなにも答えない。

 

おれはごくごくとビールを飲んだ。高いビールをごくごく飲むのはいつだっていい気持ちというわけではない。秋の虫が鳴いている。ビールによってはキンキンに冷えていないほうがいいし、ごくごく飲まないほうがいいことだってある。おれは月や星のことは知らないが、そういうことは知っているんだ。

 

少し意識を飛ばしていると、眼の前のファントムがいなくなっていた。また逃げられた。おれはビールを飲み干すと、店員を呼んだ。

「サンペレグリノを」

 

炭酸水は強ければいいというものではない。強いことがいいときもある。だが、今はそうじゃなかった。昼下がりの気だるい圧力がしけた街を押し潰そうとしていた。おれには抗う気力もなかった。ファントムたちが飛んでいるのが見える。おまえにはあれが見えないのか。午後のファントム。

 

今夜の月がどんな形をしているのかおれは知らない。左半分が欠けているかもしれないし、左半分が欠けているかもしれない。それとも欠けるのがどちらか決まっているのか。おれはビール一杯分の酔いを炭酸水でいくらか薄めて、まだ暑い十月の道を歩いた。秋の風はまだ吹かない。気づいたらおれもファントムになっているのかもしれない。おれの姿はもうおまえたちに見えなくなる。記憶の中にいても、やがて薄まって消えてしまう。まるで朝の月のように。