さよなら失墜の平成

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昼過ぎには休日出勤を終えて、赤レンガ倉庫のオクトーバーフェスっぽいもの(今はオクトーバーではない)に行こうという話が、仕事が長引いて行けなくなった。おれは平成最後の日の街なかを撮るつもりでいたのだが、結局は通勤路の写真を撮るだけに終わった。

平成は失意の時代であった。失意の、失墜の、失敗の時代であった。全ては失われた時代であった。おれにとってはそうであった。あなたにとってそうであったかどうかは知らないし、関係ないことだ。

おれの絶頂は小学生の昭和のころだった。平成は落ちるばかりであった。おれは昭和のサラリーマンになりたかった。土曜は半ドン、昼休みの屋上でバレーボール(よく考えたら危ない)。

来る令和はどんな時代であるのか。失われたものは戻らない。新たに得るものがあるとも思えない。いっそのこと、昭和が戻ってくれないか。第二昭和になってくれないか。とりとめのないことを思う。小雨が降ったり止んだりする。夜には本降りになる。おれはおれの自転車を、部屋にしまっている。

もうすぐ、時代が変わる。

なにも、変わらない。