映画『大いなる不在』~粗は目立つが藤竜也がすごいので観ろ~

作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

 

映画『大いなる不在』を観た。おれはこの映画のことをぜんぜん知らなかった。女の人が「行こう」というので「行く」ということになった。事前情報は、予約するときに映画館のサイトで目に入ったていどのことだ。タイトルと、主な出演者、あらすじくらい。

 

卓(森山未來)は、ある日、小さい頃に自分と母を捨てた父(藤竜也)が警察に捕まったという連絡を受ける。妻(真木よう子)と共に久々に九州の父の元を訪ねると、父は認知症で別人のようであり、父が再婚した義理の母(原日出子)は行方不明になっていた。卓は、父と義母の生活を調べ始めるが――。

 

映画館。ブルク13でもジャック&ベティでもない、kino cinéma横浜みなとみらいである。いつできたのかは忘れたが、行ったことがないのは確かだ。TSUTAYAの二階にある。昔、ここには大きめのブックオフがあったように思う。そんな場所に3スクリーンの映画館ができてしまうことは意外だ。意外に映画館は小さいものなのか。

 

で、以下はネタバレを含みます。まあ、あんまりネタバレどうこうという映画ではないかもしれないし、あらためて予告編見ると「え、そのシーン出しちゃうの」というのもあるけど。いや、だいたい予告編ってそういうものだけど。

 

 

さて、おれは事前情報とは言えないくらいの情報、あるいは女の人が「えーと、『父なんとか』って映画」とか言ってたことから、不在なのは「父」だと思っていた。が、不在なのは義母の原日出子であった。

 

とはいえ、父が不在であるかといえば不在ともいえる。認知症を患い、異なる世界へ行ってしまった父。そして、幼いころに主人公を捨てた父。父も不在だ。

 

逆にいえば、父にとっては息子が不在であったのかもしれない。そういうところもにおわせる。

 

その不在を感じ取ったからこそ、森山未來はあのシーンで、「許してくれ」という父に「大丈夫、許すよ」と言ったのだろうと思う。「大丈夫」と言ったところで、「許さないのか?」と思ったら、許した。お互いの不在を埋めるまでとは言えないが、そういうやりとりはあった。

 

家族の不在とはなにか。他者の不在とはなにか。あるいは、そこにその人がいるのに、認知症で不在になるとはどういうことなのか。そのあたりに正面からぶつかっていった映画だ。

 

……が、粗が目立つというか、気になってしまう映画であるのもたしかだ。

 

最初、ものものしい武装をした警察官たちが家に集まるが、あの通報でいきなりあんな出動があるのかわからない。

 

その後、単に認知症ということはわかったのだろうが、家族の承諾もなしに、単にひとり認知症の進んだ老人がいるからといって、立派な介護施設に一時的でなく看取られるまで入ることが決まるものであろうか。

 

これはもうネタバレになるが、いや、ここはネタバレゾーンだから書くが、「再婚した義母」(公式あらすじ情報)である妻が失踪してしまっているのに、その捜索もなしに遠く離れて暮らす縁遠い息子が呼ばれるものなのか。

 

というか、そもそも籍を入れていたのかどうか? と、疑問にも思ってしまう。入れてないのであれば、その妻の不在に警察も役所も気づかないということもありうる。

 

そもそも、原日出子もあれだ、いなくなるならなるで、森山未來に一報くらい入れてもいいように思うが、しかし、そこまで追い詰められていたということなのだろうか。追い詰められていて、彼女も精神状態がかなりのところにいってしまっていたから、藤竜也の認知症について(役者名で感想を書くのは悪い癖です)、医者にも役所にも相談できなかったのか。まあ、そういうことだろう。

 

まあ、そういうことだろう……で補うかな、補うしかないかな。でもね、補っても余りあるね、あのね、「圧巻」という言葉の誤用については知ったうえで書くけど、藤竜也の演技が圧巻だったね、と思う。それでもって、映画全部がもう完全にプラス評価になるんよ。

 

まだ認知症になっていなかったころの、元大学教授らしいというか、ややティピカルなところはあるかもしれないけど、理屈っぽいやや偏屈な人物の、その喋り方、仕草。少し認知症が出てきたところの、自らへの戸惑いや恐れ。認知症の世界に入ってしまったあとのふるまい。この全部が「本物!」という感じがする。

 

おれは藤竜也について『愛のコリーダ』の無修正版を大学の講義で観たことがあるというくらいだが(慶應大学の文学部はどうやってあの無修正版フィルムを手に入れたのだろう? いや、『龍三と七人の子分たち』も観たと思うけど)、こんなに存在感のあるジジイはいねえよなと思った。いや、藤竜也82歳よ? 82歳の役者となれば、「なんかいるだけで存在感ある」ということになるような感じかと思うだろうが、もう完全に演じきってて、演じるといってもとてもナチュラルで、ナチュラルといってもそれは年が年だからというわけでもなく、とにかく「すげえな」としか言えない。そりゃ、なんか外国の映画祭で賞も取るだろう。

 

むろん、他の演者もすばらしいのだ。森山未來と真木よう子ではあまりにも美男美女の夫婦という感じがするが、まあ森山未來は役者という役どころなのでそれはいいか。むろん、原日出子もいい。いいのだが、少しだけ藤竜也の伴侶としては若いかなという感じもしたが、実の息子が「家政婦のように!」といった役どころを見事に表した。もちろん、その見方は息子からの視点であって、本人の胸の内はべつのところにあるわけだが。

 

そうなんだよな、「普通」ってものはないんだ。普通から外れてしまったところに自分たちもいる。それは藤竜也もわかっていたことで、あの台詞もあったのだろう。森山未來もそう言ったのだろう。

 

だからなんだね、あれだね、そういうところも問いかけるというか、表現している映画でもあるよね。あのね、何度でもいうけど、なんか粗は目立つのよ。あの日記、海に捨てるかと思ったら捨てないし、なんか焼いているところで焼いてもらうかと思ったら焼かないし……それはちょっと無理筋か。でも、あの焼いているシーンはなんだったのか。コロナ禍をあらわすだけにしては、なんで焼いていたのかわからない。

 

まあそれで、おれは演劇舞台について疎いのでよくわからないが、たぶん実在の人に、実在の脚本で森山未來に前衛的な舞台(バックの映像と台詞の声がずれているのが「らしいな」と思った)やらせて、なんかそれらしさが、それらしさくさい感じがしないでもないしさ。

 

でもって、なんかこう、おれはみはじめたときに、「お、これはミステリーなんか」思うたんよ。事前情報もなかったしな。たしかにミステリーではある。でも、謎解きのあるミステリーなのかというと、そういうものでもない。時間軸が戻っていって、円環のような構造になっているけど、「すべての謎が解けました、ああ、スッキリ」という話でもない。不在は不在だ、大いなる不在だ。その不在は大きいけれど、まあちょっとだけ、現実世界で人ひとり不在になってどうなるのかな? という無粋なことが気になっただけだ。

 

注目されている作品なのかどうかも知らん。知らんが、まあ、なんだ、ここまで読んでいて観ていない人がいるなら、ちょっとおれの感想と突き合わせておれの粗探しがどうなのか考えてほしい。それよりも、この映画の「不在」について考えてほしい。以上。

 

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ここからは日記。

映画を見たあと、近くにあった入ったことのなかったビルにあったごはん屋に行った。

GOHANYA’ GOHAN みなとみらい店 - 和風カフェ

米を全面に押していて、今月の米は鳥取の「星空舞」という品種だった。なるほど、アピールしているようにキラキラしているように見えた。おかずはやや少なかったが美味しく、ご飯おかわり自由なのでおかわりした。おかわりも白米と玄米から選べるが、おかわりも白米にした。なお、女の人が頼んだ黒酢なんとかは量が多かったので、べつにすべてのメニューのおかずの量が少ないわけではないことを記しておく。米のおいしい店はいい店だ。

 

そのあと、女の人が「バッグを買いたい」というので、まずマークイズへ。しかし、条件にあったものは見当たらず。どうもなかなかにニッチな条件かもしれない。ランドマークプラザ。ここでも苦戦。キタムラならあるかといえばあったが、価格面で折り合わず。では……と、歩いていたら、「これはちょうどよいのでは?」というものに行き当たる。そこはどこか。サムソナイト。野郎の心理として「丈夫なものはよいもの」というところもあって、サムソナイトいいじゃないかと思う。野郎はアウトドアブランドとか、さらにはミリタリーものとか、ワークマンいいじゃないかというところがあるような気はする。見た目もいいし、なにより頑丈なのは最高だ。ということで、女の人はサムソナイトの小さなバッグを買った。悪くない買い物だと思う。そのあと、みなとみらい側のカフェは混雑しているので、野毛側のモスバーガーでコーヒー飲んで帰った。

 

 

今日は曇りだと思っていたし、じっさい午前中は雨がちょっと降ったりもしていたが、まあ午後は晴れた。日傘さすくらいに暑かった。

 

カープ戦は雨で中止、競馬は小倉のメーンが当たったくらいで惨敗。買っていた馬がスタート直後に落馬すると、もう動画は再生中止になるよな、とか気づきを得た。そんなところ。