『死と生きる 獄中哲学対話』(池田晶子・陸田真志)を読む

 

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

 

獄中哲学対話といっても、池田晶子さんは獄中にいないので、獄内獄外対話というのが正しい。……というのはどうでもいい。哲学者の池田さんのもとに、殺人を犯して死刑の確率がかなり高い未決囚から手紙が来た。それで往復書簡がはじまった、という話。

「死を恐れず、下劣であることを恐れる」、それを知り、又、獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから開放されました。そして、死も神も自由も孤独も権力も概念に過ぎない。そう知って、初めて何者も恐れず、何物にもとらわれない、真に自由な自分自身の魂を取り戻せた思いです(今、独房において全くの自由を得ていると信じられます)。そして、その「善」が在る事。それを求める心が、自分にもあった。その事実にこそ、「神」が存在する。そう信じています。

睦田「一通目の手紙」

SMクラブ下克上殺人事件 - Wikipedia

この事件の主犯が陸田真志である。獄中にてさまざまな哲学書、宗教書を読み、ある日、ある種の「悟り」(べつに仏教的な意味ではなく)を得て、現実的に迫る死刑判決、あるいは死刑そのものに対しても、なんの恐れも抱かなくなる。そして、その一端となったソクラテス本を書いた池田晶子に手紙を送る。そういう話。

 私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪ったことより、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪ったことにあります。人間がその自己の真の目的に気づく潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権である」と思えるのです。

睦田「三通目の手紙」

こう考えるにいたった「悟り」の部にはこうある。

 ……それでプラトンと池田様の著書を買い求め、最初はただ弁論術のおもしろさで読み進んでいましたが、その時、その一つ一つの事柄をソクラテスの言葉に続いて「正しい、違う、正しい」と判断している自分に、その「正・否」を完全に「わかる」自分に気付きました。その時、正に「一瞬にして全てが見えたように」思えました。自分の周りの全ての事、全存在は自分が思う事によってのみ「正・否」が決められる。自分が思う事によってのみ、宇宙も自然も世界も国も社会も家族も宗教も孤独も、「在る」と認められる。自分が思えない限りは、知らない限りは、考えられない限りは、それはどこかにあっても、自分には在り得ない。つまり生きている間は絶対に知り得ない自己の「死」は存在し得ないし、存在しない「死」が在る事によって、「在る」とされる、「生」は在るも無いも「ない」。今、本当にあるのは、「思う自分」を在ると思う「考え」だ。そして、その「考え」自体にある全ての存在への判断基準は、「在るも無いもない生」によってはあり得なく、それ自体として「正、否」があり、それは生まれたものでもないのだから、死にもしない。

(中略)

「俺の生命」は俺ではなく、俺の体も俺ではない。俺は俺という考えそのものだ。俺そのものが真実(イデア)であり、皆、同じ一つの存在なんだ」そう分かった時、私の孤独は孤独感でしかなく、私が感じていた苦しみも、「苦しいという思い」でしかない事がわかり、その時から、私が思う事によってある、私自身を取り戻せたような思いがして、初めて、最初からそうであった自分の「自由」を知ったのです。

睦田「三通目の手紙」

さて、本書のクライマックスというと、実のところ、このあたりではないかと思うのである。序盤もいいところである。だんだん、睦田は哲学の言葉が染み込んでいき、ありきたりな社会批判なんかを述べるようになる。あまり、エキサイティングではなくなってくる。「殺し」について省察した部分は読ませるが、そのくらいだろう。

一方で、対話者である池田はまず、睦田が控訴せずに死刑判決を受け入れることについて、自分と十分な対話をしたあと「天命を全うしてから、死んで下さい」、「人を殺しておいて、そのうえ、かっこよく死んでやろうなんて、考えが甘すぎます」と言う。そして、睦田の手紙を批判し始める。

 新しい原稿を読みました。

 返事が遅れたのは、いろいろ考え込んでしまったからで、どうも私は心配です。軌道修正をしなければならない、その感じが、いよいよ強くなりました。

 あなたはどうも、重大な勘違いに入りつつあるようです。「自分の立場」を忘れていませんか。当初の謙虚さが失われ、偉そうな、評論家然としたところが出てきました。これでは、あなたが軽蔑しているその人たちと、全く同じです。

池田「四通目の手紙」

なんだろうか、なんとも言えない違和感が出てくる。無論、これは往復書簡であって、対話なのである。その点で池田と睦田の関係は一対一で切り合うことになるはずなのだが、どうも池田が師匠のような顔をして、殺人者にして死刑囚というこの上なく面白い立場の睦田を利用しているように見えてしまう。睦田の言うことは睦田の言うことだから興味深いのであって、その考えをはねさせるような指摘はいいと思うのだが、どうにもそういう感じではない……ところもあるように思える。とはいえ、そうだよな、というところもある。

 禅のほうで、「増上慢」もしくは「未徹在」という言い方があります。小僧の「生悟り」を戒める言葉ですが、「気づく」ことはじつは易しく、それを「保つ」もしくは「為す」ことのほうがよほど難しいのだ、といった含みもありましょう。

 「一瞬にして全てが見えた」とか、わかった、悟った、解脱した、と「思う」瞬間は、じつはそんなに珍しいことではないのです。そうではなく「わかった」そのこと、絶対としてその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか。「悟後の修行」が大事です。「努力」という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです。

池田「五通目の手紙」

このあたりは、おれも「禅のほう」の本で何度も目にしてきたような話である。おそらく、睦田が獄中においてある種の「悟り」的体験をしたというのは確かだろう。すくなくとも、そのように読める。その後が問題なのだ。が、睦田は獄中にあって、他者を見る、他者と生きるという経験がほぼできない。

 だから私は、あなたが頭でわかったことを身をもって学び直すためにも、一度ちょっとシャバに出してくれないかなあと切に願うのですが、これに至ってはもっと無理、無理のうえに無理を重ねて、しかし、是が非でもがんばり通してもらわなければなりません。

池田「七通目の手紙」

これは、そうよな、と思うのである。だが、無理は無理である。死刑囚になって、獄中にあって、初めて学ぶこと、それによる何かへの到達、しかし、そのままシャバには出られずに死ぬということ。ひょっとしたら、殺しをせずに、あるいは逮捕されないでシャバにいたならば、凡庸な悪で終わったかもしれないところ、獄によってこうなった。死刑を受け入れるまでになった。そこのところの矛盾というか、なんというか……。

正直、おれは西洋哲学というものに歯が立たないと思っている。一方で、やはりソクラテスプラトン)くらいはあたっておかなければいけないかとも思う。いや、本書を読んで思うようになった。ヘーゲルは厳しいだろうが、せめてそのあたりは、と。おれにそう思わせただけでもいい本じゃないのか。あるいは、おれの好きなジャンルである「獄中記」というところでもいくらか読みどころがある。そんなところだ。

池田晶子は2007年に癌で死んだ。

陸田真志は2008年に死刑が執行された。

一審が終わったところでこの本が出た。その後、池田と陸田の間に交流があったのか、陸田がさらにどんな境地に至ったのか、わからない。