5月頃、はがきが届いた。
歯医者からだった。「前に来てから1年くらい経ちます。そろそろ歯科検診に来てね」という内容だった。
それからおれは、「歯科検診に行くべきだろうか」と思い続けた。
思い続けて、9月になった。9月になって、おれの歯が痛むことがあった。それは決まって左頭の片頭痛のときだった。そのときに限って、左の上の奥歯と、左の下の奥歯が痛くなるのだった。鎮痛剤を飲んだら、頭痛とともに歯痛も霧散した。
しかし、おれはこう考えることにした。
「歯が痛いときに冷たいものを飲んでも、熱いものを飲んでも沁みるような痛さがある。虫歯ではないのか」
おれは、何ヶ月も行っていない歯医者に電話をして、予約をした。予約の電話で「明日の午後はどうですか?」と言われた。おれにはとくに予定もないので、会社を抜け出すのは簡単だった。「はい」とおれは答えた。
そのときおれは、架空の自殺施設のことが頭に浮かんだ。おれは来週あたり死のうと思う。電話をしてみる。明日はどうかと言われる。おれは戸惑いながら、「はい」と答えるだろう。
おれにとって歯医者とは架空の自殺施設のようなものである。おれは歯医者に行きたくないがために、丁寧に歯を磨き、ガムを噛み、デンタルフロスを使う。歯医者に行きたくない。それに説明する理由があるだろうか。おれは子供のころ、レクター教授のようにネットで診療台に固定されて治療を受けた人間である。小さな歯科からは「もう来ないで下さい」と出入り禁止になった人間である。その人間は大きくなっても、大きくなったその人間に過ぎないのである。
おれは暗い気持ちで会社を抜け出し、歯医者に向かった。そのときに撮った写真が次のものである。
増設中の横浜スタジアム、これである。これになんの意味があるのか。ろくでもなく意味がない。なんの見どころもない。おれはそんな心境だったのだ。
おれは歯科医院に着いた。予約時間ちょうどくらいだった。
「予約の電話ではいい忘れたのですが、歯石の除去もおねがいしたいのですが」
「今日じゃなくても大丈夫ですか」
「はい……」
そしておれは問診票のようなものを書かされた。歯磨きの時間……。「5分」と書きかけて、おれは鉛筆を止めた。「おれは5分くらいのつもりでも、実際は3分くらいではないのか」と思ったのだ。しかし、朝や晩はダラダラと歯を磨いている。おれは「5分」と書いた。服用している薬を書く欄があった。「ジプレキサ、アモバン、メイラックス」……もう一個が出てこなかった。セニランである。まあいいだろう。ちなみに、商品名で書いたが、実際はゾロなので正確ではない。
午後開業一番の患者である。すぐに呼ばれた。おれは、歯医者の、診療台に、座った。恐るべきことだ。医者になにか訊かれた。おれは、おれの歯が、どのように、痛くなったのか、答えた。
……が、正直に述べると、おれはおれの上下の奥歯が虫歯である確率は低いのではないか、と思っていた。ちょうど上下の奥歯が同時に虫歯になるようなことがあるだろうか。片頭痛の痛みが歯のあたりまで及んでるだけではないのか。おれは、正直、そう思っていた。それでも、おれは、言った。
「頭痛のとき、冷たいもの、熱いものを飲んでも、少し沁みるような痛みがあるのです」
歯医者が口の中を見る。歯医者は少し歳をとったように見えた。もしも歯医者がおれのことを覚えていたら、おれも少し歳をとったように思っただろう。
歯医者が助手……歯科助手に何かを告げる。意味不明の暗号のようなものだ。おれにはまったく理解できない。ただ、左右の上の歯に風を当てたりしながら、なにか言った。
「見た目には虫歯はありません。レントゲンを撮りましょう」
おれはレントゲンを撮ることになった。レントゲンを撮るにあたって、「ピアスは取れますか」と聞かれた。おれは、「耳たぶのはすぐとれますが、上のは面倒くさいです」と言った。「じゃあ、そのままでいいです」と言われた。
おれは二本の棒を握らされ、顎とおでこを定位置につけた。メガネは外されていたのだが、テープに「イヤリング、ピアスは外してください」という書かれているのが見えた。おれは口に綿をくわえさせられた。レントゲン撮影がなされた。
診療台に戻った。「お時間はありますか?」というので、「あります」と答えた。仕事なんてどうでもいい。「では、レントゲンが出る前に、クリーニングをします」と言われた。歯石除去。
歯科助手の女性の仕事だった。口の中に、水が出ながら、一方で吸引をするような管を入れられた。回転する砥石のようなものを突っ込まれた。おれはそのキュイーンが苦手なのだ。何度か口をゆすいだ。砥石のようなものは何種類も使われた。ときに、金属棒でカリカリと削られた。
途中、別の患者の診察にあたっていた歯科医が戻ってきて、レントゲンの説明をした。「ピアス、すごい写ってますね……。虫歯は、ありません。顎の線も下がったり上がったりしていない。親知らずも今のところ問題ない」とのことだった。「虫歯ではありません。ただ、少し歯茎が出ているので、知覚過敏になっている可能性があるので、薬を塗布します」。
また、クリーニングに戻った。高級な包丁を研ぐように、いくつもの砥石によっておれの歯はクリーニングされた。そして、最後に歯茎が後退していると推測された左右の上の歯に薬を塗られた。
そして、歯科助手の女性との問診のようなものがはじまった。おれはそこで、激賞された。おれは人生であまり褒められたことがない。そのおれが褒められた。
「歯磨きは完璧です。親知らずまで、ここまできれいにしている人はほとんどいません!」
おれは、自分の人生の褒められ総量の6割くらいを褒められたんじゃないかと思った。そのくらいい、おれの歯磨きはよいものらしい。
とはいえ、それは、おれが歯医者というものに行きたくないがために習慣にしていることである。その歯医者的存在に褒められているのである。微妙な気持ちである。
が、歯茎の後退というのは、歯磨きが強すぎることによるらしい。おれは歯ブラシと歯磨きについて答えた。
「歯磨きはGUMの普通の練り歯磨きと、パックスのせっけん歯磨き……。歯ブラシはタフト24のソフトで……」。
「せっけん歯磨き?」
「ええ、せっけんなのに歯磨きってなんやろって思うて……」
まあ、ともかく、ちょっと歯磨きが強すぎるということはともかくとして、おれは褒められた。歯磨きを褒められた。おれは、わりとうれしかった。なにせ完璧なのである。ここまでの人はなかなかいないというのである。
……お世辞? いや、それでもいい。ようしらん人に面と向かって褒められる。これは、そうとうによい経験ではないか。よい体験ではないか。言い方は悪いかもしれないが、金を払う価値があるのではないか? おれはそう思った。
が、まあ、ちょっと4,730円は高えかな、と思ったのは正直なところではあるが。また、一週間後に、行く。
ところで、おれの口の中は清潔である。おれとディープ・キスをしたい女性は列を作るように。
以上。
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これ以来の歯医者であった。
まとめ買いしたタフト24のソフトを使っているが、少し硬いのかもしれない。
GUMはいいよな。
おまえは、せっけんハミガキを知っているか? - 関内関外日記
せっけんハミガキは悪くないことがわかった。
ただ、練り歯磨きはブラシの1/3くらいに出して、優しいブラッシング、これ鉄則。