音声配信の密かな楽しみ、文章にすることと、話してしまうことの違い

寄稿いたしました。

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このごろ、Xのスペースで音声配信というものを始めてみました。注意深い黄金頭ファンさんならお気づきでしょうが(いるのか?)、「まだ始めたばっかりじゃねえか」とツッコミをうけるところでしょう。本当に、始めてから一週間とかで書いた。鉄は熱いうちに打て、ではないけれど、初期衝動のあるうちに書いておこうと思った次第です。というか、すぐ飽きてしまうかもしれないし……。

 

で、毎回スペースのタイトルは「湯豆腐作り中」でそこにサブタイトルがつく感じです。最初は本当に湯豆腐実況だけでした。でも、そのあと、ちょっとなんか喋ったろうと思って、これが難しい。台本も構成作家もいない一人の世界。こまったおれは東京スポーツのエロ記事欄の話をしたり、古本で買った昭和のエロ話本の話など、エロに逃げました。

 

でも、ちょっとは慣れてくるもので、このごろは、最初の最初に比べたら、なんか喋ってるような気がします。読んだ本の感想というか、ちょっとした紹介とかしたりとか。

 

で、そこからなんか考え事に及ぶことがたまにあります。考え事というと漠然としていますが、最近ご無沙汰になっていますが、この日記でさんざん書いてきたようなことなどです。

 

考えるという行為は一緒です。でも、出力先が違う。文章と、音声。これはもう、たぶん、同じことを言おうとしてもずいぶん違うんじゃないかと思います、結果が。やっぱり文章は、起承転結とかなんとか言わないけれど、無意識のうちに構成をしている。編集といったほうがいいのかもしれないけれど、形を作るところがある。

 

一方で音声、お喋り、これはもう脳内により近い。おれはよく「文章にするとすべて嘘になる」みたいなこと書くんですが、それに比べると嘘は少ない。やっぱりそりゃ、言葉にする段階で取捨選択は行われている、編集は行われている。でも、それが不十分だ。なにか言ってしまう。続いて思いついたことを言う。それって、もう言っちゃうと取り返しがつかない。いや、あとから言い直すとか、撤回しますとか言うことはできても、もう流れてしまったものは流れてしまった。

 

喋ることのほうがより身体的なところがあって、時間的であって、不可逆なところがある。編集したものを流す、というのなら別だけれど、生配信だとそうもいかない。そこが怖くもあり、楽しいところでもある、というのが今のところの感想。脳内の大開陳、垂れ流し、文章もゼロ距離射撃のほうがいいと思っている。でも、そうもいかない。レトリックとかいうものはついてくるし、韻を踏むために文末書き直すかとか、いろいろ入ってくる。それが生のお喋りにはない。聞いている方はなにがなんだかわからないかもしれないが、喋っているおれもわけがわからんのだ。けど、わからなさというのも楽しい。

 

というわけで、「湯豆腐作り中」の生配信はしばらく続きます。あ、でも、もうすぐ終わります。続編は「鍋作り中」となって、ある日突然切り替わる予定です。暇な人は聞いてみてください。以上。