なにか新しいペソアの短編集が出ていたので読んだ。おれはポルトガルに縁はないが、フェルナンド・ペソアは好きである。
ペソアを紹介したりするのにペソアの文章を引用しだすときりがない。短編それぞれについて、引用しないで感想だけメモする。
「独創的な晩餐」
はたして「独創的」かどうかはわからない。途中で、これはあれなんじゃないか、みたいに思う。はたしてそのとおりだ。ペソアはそういうものも書く。
「忘却の街道」
詩に近いような、なんとも不思議な文章である。単に闇と馬の足音だけがあって、それでいてなにかを成立させている。おれがこの短編集で一番お気に入りの一作といっていい。
「たいしたポルトガル人」
たいしたポルトガル人の小話である。
「夫たち」
女性の立場に立った、というと女性から文句を言われるかもしれないが、そういう供述の書。ペソアの視点の自由自在さがあるように思えるのだが。
「手紙」
これも女性の立場に立った一作。ある悲壮な恋文である。読ませるよな、と思う。いい作品。
「狩」
狩りの話。獲物を狩るあくなき愛。
「アナーキストの銀行家」
表題作。少し長い。「銀行家」は「銀行員」ではない。ブルジョワの資産家である。その彼が自分自身をアナーキストであると語る。日本のアナーキスト大杉栄はこう書いた。
僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭いやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。
「新秩序の創造」
たとえ無政府主義を目指しても、その途中にはどうしても社会的虚構に基づいた新たな専制政治が生み出されてしまう。では、アナーキズムを目指す永遠革命者はどのような悲哀を生きるのか。いや、この「アナーキストの銀行家」には悲哀は少ない。はっきりした意思である。自らも犬とせず、人も犬としない思想である。が、それははたして、なんであるのか。具体的にどうであるのか。どうにも難しい。行き詰まるところがある。おれにはそう感じられる。それでも、ペソアは犬にならない、犬そのものもの否定を目指す。そういうペソアも嫌いではない。
……というわけでペソアだ。ペソアを読むに、やはり『不安の書』あたりから入ってほしいという思いもあるが、べつに本書でもいいだろう。しかし、『不安の書』(『不穏の書』)にある独特の世界に触れてほしいとも思う。そんなところ。