街で見かけたパン屋さんの貼り紙。おれとはなんの関係もない。
5月6日の26時にこれを書いてる。正確な意味で連休は終わってしまった。だが、眠るのが怖い。会社に行くのが怖い。会社で暇に過ぎていく時間を過ごすのが怖い。おれはひとけのないアパートからひとけのない地区にある会社に自転車で通う。はっきり言って、濃厚接触どころか人との接触すらないといっていい。だから、小声で言うけれど、新型コロナウイルスに感染する怖さ、自分が感染していてだれかにうつしてしまう恐怖というのはほとんどない。ただ、怖いのは仕事が暇なことであり、会社に金が入らないことであり、おれの給料がなくなることであり、職を失ってしまうかもしれないことである。
それはおれの日常の終わりだ。おれはおれほど環境の変化を好まない人間はいないんじゃないかと思うくらいだし、おれはのんべんだらりと生きて、安い飯を食って、安い酒を飲んで、たまにスコッチを飲んで、週末にすこしばかり馬に賭ける金があれば十分だ。これ以上は望まない。それなのに、それすら許されなくなる。おれは怖い。今までのおれの生活を贅沢と言う人もいるだろうし、憐れむ人もいるだろう。その上下の階層にはきりがなくて、どう思われようがおれにはどうしようもないと思っている。ただ、おれはおれ自身の実感として、そんなに豪奢な暮らしをしているとは思わない。
ところで、先日こんな日記を書いたら、意味もわからずブックマークを集めてしまった。おれにはまったく意味がわからない。その記事のどこに有用な情報があるのか? 人の心に届く言葉があるのか? 反発心を煽るメッセージがあるのか? なんにもないだろう。手帳持ちの双極性障害者が急な不安感に襲われただけだ。そんなものは処方されている抗精神病薬と抗不安薬が脳に働きかける領域の話だ。メイジャー・トムは単なるジャンキーだ。
いずれにせよ、夜が明けるのが怖い。この連休で沢山のアルコールを飲んだ。もう、身体が受け付けないというくらい飲んだ。この焼酎も気持ち悪い。あのアードベッグを飲むのはやめておこう。いい酒によくない記憶を刻むのはもったいない。
とにかく、おれは留守番要員として、あのオフィスに戻るのだろう。だれも来ない、電話も鳴らない、ガランとしたオフィスに。そして、そこにいつまでいられるか、わかりはしない。非日常的に非日常的な連休が終わるのが怖い。おれは3.11で日常というものが世界を塗りつぶす強烈な力を思い知った。だが、今回はどうなのだ。今回は、どうなのか。
わたしは自分の静かな部屋で、いつもそうだったように独りで、これからもそうであるように独りで、もの悲しく独りで書いている。さらに、うわべは取るに足らないわたしの声が、何千もの声の実質を、何千人もの自己表現の渇望を、わたしのように毎日の運命のなかで無益な夢、つかみどころもない希望に服従した何百万人もの忍耐心を、具現しているのではないかと考える。
フェルナンド・ペソア『不安の書』