フェルナンド・ペソア『不安の書』を読む

 

不安の書

不安の書

 

フェルナンド・ペソア『不安の書」である。そう書いてみて、ちょっと説明不足だな、というところがある。まずはフェルナンド・ペソアが異名であるリカルド・ソアレスの名で書いたという点がある。そして、本書を十分の一くらいにした『不穏の書、断章』という本がある(本を読んだ)という点がある。そして最後に、ペソアがこの本をこの形で出そうとしたかどうかわからない、というところがある。すべて、遺稿をだれかが編集したものだからだ。

……まことにめんどうな話である。だからといって、本書はめんどうではない。むしろペソア本人の言葉に近い(という言い方が妥当かどうかしらん)ともいえる。そして、その感性は、おれという人間におおいに響くところがある。おれもこのような人間だろうと思うのだ。ペソアに、あるいは、ソアレスに寄せて。

 ほとんどいつもそうしているように自分を外から見ると、わたしは行動には不向きで、歩いたり身動きしたりしなければならなくなると困惑し、他人と話すのが不得手で、精神的努力を要することで娯しむには頭脳の明晰さに欠け、気晴らしになる単なる機械的な労働に従事するには肉体的な持続力もない。

面倒くさいやつだ。でも、おれもそうなのだから仕方ない。

 意識しているいないにかかわらず誰もが形而上学を持っているように、望む望まないにかかわらず誰もがまたある道徳を守っている。わたしはきわめて単純な道徳、誰にも悪いことも善いこともしないという道徳を守っている。

 これはまり面倒くさくない。ペソアが仏教の影響を受けたかわからぬが、善行も悪行も同じ業に変わりはない。サンスカーラは自由にならない。つきつめれば親鸞悪人正機になる。本願ぼこりもまた誤りのもとである。悪いことも、善いこともしない、一つの境地ではないか。

なぜ芸術は美しいのか? 役に立たないからだ。なぜ実生活は醜いのか? すべて目的、目論見、意図だからだ。実生活の道はどれもこれも、ある地点から別の地点へいくためだ。誰も出発しないところから、誰も向かっていないところへ向かう道があればよいのだが、

芸術とは何か? という話になると面倒だが、実生活と比べてみてこの見解はいいと思う。目的、目論見、意図……いまどきの言葉でいえば「生産性」。これである。ただ、実生活の「道」以外の道はおれには見えない。ただ、目的、目論見、意図の世界が今のこの世を覆い尽くして、おれは息ができない。

 倦怠はあまりに壮大で、生きているという恐怖はあまりに絶大なので、わたしには、それに対する鎮痛剤、解毒剤、香油、忘却として役立つものがあるとは想像もできない。眠るのは、この上なくわたしを恐れさせる。死ぬのは、この上なくわたしを恐れさせる。進むにせよ立ち止まるにせよ同じことでいずれも不可能だ。希望も不信も、同じように冷たく灰色だ。わたしは空の小瓶の並んだ棚なのだ。

アメリカとかいう国ではオピオイド系鎮痛剤で毎日何人だか何十人だかが死んでいるらしいが、この世は苦痛なのであって鎮痛剤が必要なのは間違いない。なぜ日本人は大麻を、オピオイドを忌避するのか。痛みを感じて生きているのはおれだけなのか、早く死ねということなのか。

というような嘆きばかりがペソアではない。そうでなければ、ポルトガルの国民的詩人になったりはしないだろう。

わたしたちはまだ若く、高い樹のもとを森の柔らかいさらさらという音を聞きながら通り過ぎた。たまたま回り道をすると、突然現れた空き地は月光に照らされて湖になり、枝がもつれたその岸はよるそのものよりも夜だった。大きな森のかすかな風は樹々を渡って音を立てながら息をついていた。わたしたちはありえないことを話し、わたしたちの声は夜や月光や森の一部になっていた。わたしたちはそれを他人のもののように聞いていた。

こんなん……って、もっとよかったような気がするが、まあいい。こういうところだ(どういうところか?)。

 世界は感じない人間のものだ。実用的な人間になるための本質的な条件は感性に欠けていることだ。生活を実践する上で大切な資質は行動に導く資質、つまり意志だ。ところが、行動を妨げるものがふたつある。感性と、結局は感性をともなった思考に過ぎない分析的な思考だ。

このあたり、「感じない人間」からは、単なるルサンチマン、負け犬の遠吠えと言われるところだろう。そして、それに返す言葉はない。そして、「感じない者は幸せ」なのである。おまえはどちらの人間だろうか。そしておれは。

……わたしは頭が痛いので、頭が痛い。頭が痛いので、宇宙が痛い。だが、実際わたしに痛みを与える宇宙は、わたしの存在することを知らないので、本物の存在ではない。しかし、それはわたし自身の宇宙であり、もしもわたしが頭をかきむしるなら、ひたすらわたしに痛みを感じさせるために、頭全体が痛がっているとわたしに思わせているのだ。

そうだ、宇宙が痛いのだ。そして、おそらく宇宙は虚しい。

 わたしは自分の静かな部屋で、いつもそうだったように独りで、これからもそうであるように独りで、もの悲しく独りで書いている。さらに、うわべは取るに足らないわたしの声が、何千もの声の実質を、何千人もの自己表現の渇望を、わたしのように毎日の運命のなかで無益な夢、つかみどころもない希望に服従した何百万人もの忍耐心を、具現しているのではないかと考える。

むなしく痛い宇宙で、独りではないかもしれないという希望、それは虚しくないものだろうか。おれも、なにかを書いていて、独りではないと思うことはあるだろうか?

 あらゆる人間がわたしでないのが羨ましい。それは不可能なことのなかで最大のもののように思われ、それが最大の原因となって、わたしの毎日の苦悩、あらゆる時間が悲しいというわたしの絶望が生まれた。

とはいえ、やはり独りの苦悩を抱えるのだ。その絶望の深さは絶対のものである。そこまで人間は自分を貶めるか、絶望するかといえば、あくまで取るに足らないおれから言ってもYES、だ。

 私は人と友達になる才能がいくらかあったが、そういう人がいなかったせいか、わたしの想像した友達付き合いがわたしの夢の間違いだったせいか、一度も友達ができなかった。いつも孤立して、自分を意識すればするほど、ますます孤立して暮らした。

これもYES、だ。いや、それって結局、才能ねえんじゃねえの、と言われたらそれまでだが……。

 自由とは孤立の可能性なのだ。もしおまえが人から離れることができ、金銭の必要性や群れを作る必要や愛や栄光のために人を捜し求めなくてもすむなら、おまえは自由だ、なぜなら、そうしたものはどれも、静寂や孤独のなかでは栄えないからだ。もしもおまえが独りで暮らせないのなら、奴隷に生まれついたのだ。精神と心のあらゆる偉大さをそなえているかもしれない。それなら、おまえは高貴な奴隷か賢い召使いだ。だが、おまえは自由ではない。そして悲劇はおまえに起きているのではない、なぜなら、おまえがそのように生まれたという悲劇はおまえに起きたのではなく、ただ〈運命〉によるおのだからだ。しかしながら、生活が圧迫し、生活そのものがおまえに奴隷になるように強いるなら、おまえは哀れだ。もしも自由に生まれ自己充足でき、孤立することができるのに、貧困のために共同生活をせざるを得ないなら、おまえは哀れだ。そう、それはおまえの悲劇で、おまえにつきまとう。

 そうなのだ、おれも奴隷に生まれついたのだ。「生まれつき自由の身」ではないから、「人間の最大の光輝」をえられぬ身にすぎない。悲惨で哀れだ。おれは孤立と自由を希う、絶対的な孤立と自由を。

 金は素晴らしい。なぜなら、解放だからだ。

まさに、そのとおり。ペソアはわかっている。すくなくとも、おれの気分をわかっている。そう思う。しかし、だからといってペソアにとってなんなのだろう。

 すでにわたしの属していない将来のある日、もしもわたしの書いているこうした文章が称賛を得てながらえているなら、とうとう「理解してくれる」人、わたしの親類、そこに生まれ、愛される真の家族を得るだろうと、悲しい喜びを感じつつ時おり考える。しかし、わたしはその家族に生まれるどころか、ずっと前に死んでいるにちがいない。わたしは肖像としてしか理解されず、その時には、愛情は、これを受けたからといって死んだ者が生きていたときに受けた冷淡一方の扱いの償いにはならない。

 ……ってな具合なんだろうな。

以上。

 

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……いきなり「不安の書」だと分厚いから、こっちからでいいと思うよ。