シオラン『告白と呪詛』を読む

 

告白と呪詛

告白と呪詛

 

  もう一つ、原著者の名前について。シオランの洗礼名はエミールであるらしいが、彼は早くからこれをE・Mと略すようになった。そしてとうとうこの本では、そのE・Mも捨てて、ただ、シオランとだけ名乗っている。この人の、断念の果てという感じがする。

訳者後記

というわけで、シオラン最後の一冊を読んだ。といったところで、おれはまだ『生誕の災厄』一冊しか読んでないことになっているので、「ようやく最後まで……」という感慨があるわけでもない。ただ、「少しまるくなったかな?」というような気はしないでもない。それも、断念の果ての境地なのだろうが。

シオランについてなにか引用しようとすると、すべて引用したくなってくる。フェルナンド・ペソア病に近いかもしれない。だが、いくつか。

 独りでいることが、こよなく楽しいので、ちょっっとした会合の約束も、私には磔刑にひとしい。

どこがまるくなったのだ? という感じすらする。とはいえ、老いてますますこの境地というのは、我が祖母を思い出さずにはいられない。おれはその血を受け継いでいる。

 倦怠はたしかに不安の一形式だが、恐怖の影を拭い去った不安、とでもいうべきか。倦怠にとらわれると、人は実のところ、何ものをも怖れなくなる。倦怠そのものを除いては。

 これは昨日今日のおれを襲った抑うつ状態を説明しているかのようである。

オートバランサー無しで二足歩行は難しい……双極性障害、抑うつ、日内変動 - 関内関外日記

人生に対する怖れ、不安はいったんどこかへ行ってしまう。それどころではなくなる。また、倦怠感に襲われるとき、なにかを考えることを放棄したくなるという意志すらも湧き出てこなくなる。ただ、この事態そのものをどうするか、このままだとどうなるのか、という怖れをいだく。

 私がこしらえようとしなかった子供たち。もし彼らが、私のおかげで、どんな幸福を手に入れたか知ってくれたなら!

ひねくれた言い回しだが、シオランの反出生主義がよく現れている。一切皆空、生老病死。そういえば、本書にはシオランが『正法眼蔵』のフランス語訳を読んだみたいなことが書いてあった。

 私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。

大学に入りたてのころだったか、なにかの授業で「ある文化とはなにか?」という、えらく抽象的な質問を当てられて、苦し紛れに「同じ言語を有するものです」と答えた覚えがある。言いながら、なんて不完全な答えだろうと思った。講師は「それも一理あるが……」と続けたが、その先はおぼえていない。そのときおれはシオランのこのアフォリズムを知らなかった。ちなみに、シオランははじめルーマニア語で書き、あとはフランス語で書いた。

 人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである。

 「世の始まり」をどこととるか。おれはまだシオランを二冊しか読んでいないので、彼の見解をスラリと述べることができない。グノーシス的に偽りの神のことを述べるか、それとも東洋的な見方か?

 ドイツ人は、パスカルハイデッガーを、同じ鞄に入れるのは滑稽なことだというのが、わかっていない。この二人を隔てる距離は、シックザール(運命)とベルーフ(職業)との距離にひとしい。

 おれはパスカルハイデッガーも名前しか知らない。では、なぜこの断章を引用したのか。シックザールとベルーフという競走馬がいるからである。シックザールは福島牝馬ステークスを制したスイートサルサの弟で、父はジャスタウェイ。これを書いている時点で未出走の新馬ベルーフ京成杯勝ちの実績があり、父はハービンジャー、母はレクレドール、その母ゴールデンサッシュ、すなわちステイゴールドの近親。さて、この両馬の距離はいかほど?

パスカルとハイデッガー―実存主義の歴史的背景 (1967年)

パスカルとハイデッガー―実存主義の歴史的背景 (1967年)

 

 

 何ひとつ達成できなかった。それでいて、過労で死んだ。

なにか唐突でいて、ひどく皮肉で、おかしくて悲しい。もしおれがおれ個人の墓というものを有するなら、この一文を刻んでもいい。原語はしらんが。

 一日また一日と、私は「自殺」と手をたずさえつつ生きてきた。自殺をあしざまにいうのは、私からすれば不正、恩知らずのたぐいだ。自殺ほど理にかなった、自然な行為があるだろうか。自殺の反対物を考えてみるがいい。この世に在ろうとする気狂いじみた欲求がそれだ。人間の、骨がらみの病い、病いの中の病い、わが病い。

埴谷雄高も反出生主義者といっていいだろうが、「人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある」という言葉を残した。自殺は自然だろうか、それとも最も意識的な行為だろうか。そして、シオランは「わが病い」と言っている。存在の辺縁で、そう言っている。

 挫折することがひとつの責務になり、「わたしは本望を遂げられませんでした」という言葉が、あらゆる打ち明け話の主要旋律になっているような、そんな国から私は来た。

「そんな国」が現実の国を指しているのか、シオランの国を指しているのかわからない。しかしおれも「そんな国」に住んでいないとも言えないだろう。

 雲がつぎつぎに流れてきては、走り去ってゆく。夜の静寂の中で、急ぎ足の雲の立てる音までが聞こえそうだった。私たちは、なぜ、この地上にいるのか。人間というこのちっぽけな生きものが、ここに在ることに、何か意味があるのだろうか。こんな問いに答えがあるはずもないのだが、私はごく自然に、いささかの熟慮も経ず、この上なく陳腐な言葉を吐くのを恥ともせずに、こう答えてやった。

「私たちがこの地上にいるのは、互いに苦しめあうためだ。ほかになんの理由もない」

 なにやら詩的な流れから、一気に落とすスタイル。中学校の国語の教科書にでも載せてみたらどうだろうか。

 人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。

いいなあ、老いてますます盛ん、などと言ってはなんだが、なんとも勇気づけられる言葉ではないか。この言葉を前にしては、未来は明るいとしか言えない。

というわけで、『告白と呪詛』。なぜかわからないが、帯で安部譲二も絶賛している一冊。おすすめです。

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