鹿島茂『悪の箴言 耳をふさぎたくなる270の言葉』を読む

 

悪の箴言(マクシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉

悪の箴言(マクシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉

  • 作者:鹿島茂
  • 発売日: 2018/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

マクシム(Maximes)というのはラ・ロシュフーコーの著作が元になった言葉で、「辛辣な人間観察を含んだ格言、箴言という意味らしい。

ラ・ロシュフーコーから、パスカル、ラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエールシオラン(!)、最後にまたラ・ロシュフーコーと、作者が採取した箴言を収録したのが本書である。

「私たちはひどく思いあがった存在だから、全世界の人から知られるようになりたい。いや、自分がこの世から消えたあとでさえ、未来の人に知られたいと思っている。それでいながら、周囲の五、六人の人から尊敬を集めれば、それで喜び、満足してしまうほど空しい存在なのだ」

パスカル『パンセ抄』

なるほど、耳をふさぎたくなる言葉だ。

鹿島茂自身のつくったマクシムもあったりする。

<面倒くさい>が人を律する最高のルールである。

なるほど、納得が行く。おれのような怠惰で何事にもやる気を出せないな人間にはぴったりである。

生老病死……これは仏教の話だが、おそらく全人類に関わる話である。

 老い「われわれは人生のそれぞれの年齢にまったくの新人としてたどりつく。よって、ほとんどの場合、いくら歳をとったとしても、その年齢においては経験不足のルーキーなのである」

ラ・ロシュフーコー『マクシム』

これは新鮮な見方だった。10歳の子供は10歳のルーキーだし、40歳のルーキー、80歳のルーキーをそれぞれ生きる。生きられる人は。

パスカルに移る。

「私は人間のさまざまな行動や、人が宮廷や戦場で身をさらす危険や苦しみのことを考え、かくも多くの争いや情念、大胆で、時に邪悪なものにさえなる企てはいったいどこから生まれるのかと考察を巡らせたとき、人間のあらゆる不幸はたった一つのことから来ているという事実を発見してしまった。人は部屋の中でじっとしたままではいられないことだ。

パスカル『パンセ抄』

この「人のあらゆる不幸は部屋の中でじっとしたままでいられない」というのは、ずっと昔に、だれかが引用していたのを読んで以来、心に刻まれた言葉である。怠惰でやる気がないはずのおれも、やはりそうなのだろう。もっとも、「ネット環境がある」などというと、それはそれで部屋の中で充足してしまうかもしれない。

有名なのはこちらだろう。

「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や水の一滴でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いといえる。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない」

人間は人間の惨めさを知るがゆえに、人間は偉大だというのだ。

ラ・ブリュイエール

「生まれながらの模倣家であって、常に誰かの後について仕事をしようという極めて謙ましやかな一著作家に、私は勧告する。お手本には専ら、機知とか空想とか博学とかの入っているような著作だけをお選びなさいと。彼は、原本には達しないまでも、少なくともそれに接近するから、そしてまた読まれるから、である。だがこれに反して彼が模倣することを避けなければならないのは、気分によって書く人々、心の声に応じて書く人々、心によって措辞と形容をとを想いつき、いわばその肚の底からその紙上に表現するすべてを引き出す人々である」

ラ・ブリュイエール『カラクテール』

おれは常々「気分によって書く人」でありたいと思っているし、「肚の底」をぶちまけてなんぼだと思っている。だれも模倣しようとは思わないだろうが、おれの模倣をしないほうがいいだろう。もっと賢そうな人を模倣しましょう。

同じくラ・ブリュイエール

「時に人は自分の欠点を、自らそれを率直に白状することによって、匿そうとし、またその評判を緩和しようとする。某は言う《私は無知です》。なるほど彼はなにも知らない。ある人は言う。《わしは年をとったよ》。彼は六十を越している。またもう一人は言う。《私は金持ちではない》。まったく彼は貧しい。

ラ・ブリュイエール『カラクテール』

マイナスの価値を正直に明言したら、それは下からのマウントになる。これはおれもよく使うので耳が痛い。鹿島茂はこれを、自分の言葉で「ドーダ」の一種という。なるほど。鹿島茂(と東海林さだお?)の「ドーダ」については読んでみる必要があるだろう。

シオラン。おれがここ数年でもっとも影響を受けたシオラン鹿島茂シオランの『生誕の災厄』をして、枕頭の書という。鹿島茂は信用できる人間ではないのかと思ってしまった。そのわりに、反出生主義的側面についてはあまりひいていないのだけれど。

「生まれないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空間に恵まれることか!」

シオラン『生誕の災厄』

注意してほしいが、「生まれないこと」は「死ぬこと」ではない。これを勘違いして、「反出生主義はとっとと自死すればいい」というようなことを言う人がいるが、明らかな間違いだ。死ぬことと生まれないことは違う。

シオランはさらに突き詰める。

「大事なのは私一個の始原などではない。始原一般こそが問題なのだ。自分の生誕というこの二次元的強迫観念に、私があえてぶつかってゆくのは、時間の第一瞬間と取っ組みあいをするすべがないからである。一個人の不安感は、最後の最後には、宇宙開闢の不安感にまで遡行することになる。私たちの五感の一つ一つが、存在がどことも知れぬ場所から外へと滑り落ちたときの、その引鉄となった第一番目の感覚の大罪を償っているのである」

シオラン『生誕の災厄』

言葉について。

「私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外のなにものでもない」

シオラン『告白と呪詛』

おれの短い大学生活で、講師に当てられたことを思い出す。「文化とはなにか?」という曖昧な問いだった。おれはとっさに「同じ言語を共有することです」と答えた。講師は「それにも一理あるが、おなじ英語圏でもイギリスとアメリカでは違う文化がある」というようなことを言って、文化圏というものについて語り始めた。授業のあと、同じクラスのやつから「あれに答えられてすごい」と言われたが、おれは自分のとっさの答えを恥じていた。言葉が同じだから文化が同じだということはない、とわかりつつ述べたからだ。とはいえ、シオランがこんなことを言っているのは少しの慰めになろう。

「もしわたしたち銘々が自分のすべての企てや行動を鼓舞する欲望、最も人目に晒したくない欲望を打ち明けるなら、『人に誉めてもらいたいのだ』というだろう。

シオラン『時間への失墜』

これも人間の心理の真理の一つであろう。とはいえ、今どきは「誉めてもらいたい」というのを隠さないほど強いような気もする。どうだろうか。ちなみにおれは誉めてもらってもその受容体がないので、誉めがいがない人間だと言えるだろう。けなされるより誉められたほうがいいのは確かだが。

 

……と、まあ、こんなところをおれは採取した。それにしても、シオランを枕頭の書(知らなかった言葉なので使いたい)にする人がいるというのはいいな。おれも金があったら『カイエ』を買って枕元に置きたい。

本書は男女関係や人生についての箴言、それもけっこうきついやつがまだまだたくさん収められているので、読んで損はないだろう。

 

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おれは十六年前にパスカル箴言をひいているが、どこからひいたのか覚えがない。

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