山本直樹『レッド最終章』を読む

 

しばらくまえに気づいた。ひさびさに漫画を売ってる実店舗というところに行って、売っているのに気づいた。気づいたので買った。おれにとって『レッド』は買う漫画なのだ。しかし、熱心に発売情報を追うほどではなくなっていた。

あさま山荘の10日間」といえば、物語のクライマックスだろう。だが、はたしてクライマックスなのだろうか? という思いにとらわれた。行き着いたところにあるべき話があった、という印象が強い。国家権力との直接の武力闘争。死人も出る、鉄球も出る。知られた話だ。だが、ことさらそれを衝撃的に描いた、とも見えぬ。淡々としていると言ったら言い過ぎだが(なにせ事実が事実なだけに自然と衝撃的な絵にはなる)、ここは終着駅であって、最高点であったわけではないかもしれない、などと思うのである。……とか言いつつ、ページをめくり始めたら止まらなくなったのだけれど。

やはりまあ『レッド』のいちばんの恐ろしいところはどこかといえば、内ゲバ自己批判、総括援助に至る心理状況と暴力描写であって、あるいはもう最初の印旛沼という話になりかねない。

して、その実際はどうだったのだろうか。帯にもあるが植垣康博はこう書いている。

この作品のすごいところは、事実を無視した創作が持ち込まれていないことである。

むろん、植垣康博連合赤軍のすべての現場に立ち会ったわけではないが、植垣康博がそう言うのだからそうなのだろう、という説得力がある。

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P.42より

さて、では、革命運動の先鋭化というものはなんなのか、内ゲバというものはイデオロギーと関するのか、あるいは日本的なるものに関するのか、いずれもなのか、それともべつなのか……いまだよくわからない。わかるはずもない。そもそもが人間組織いうものがよくないものである、という可能性もある。人間が生まれること自体が呪いであり邪悪なことである、というところにまで行ってもいいだろうか。

 地上楽園の信奉者たちと私との不和の、その深い理由を指摘せねばならぬとしたら、私は次のように明言しよう。すなわち、人間の抱く一切の企図が、遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は、理想的な社会形態を追求してもむだなことだ、と。人間の行為は、たとえ高潔なものであろうとも、結局は人間を粉砕するべく、人間の前に立ちふさがるのである。各人は、例外なく、おのれの夢見るものの犠牲となり、おのれの実現するものの犠牲となるだろう。

E.M.シオラン『歴史とユートピア

おれはこのシオランのいうことに首肯するところがある。ゆえにおれの本質は「反動的」なのかもしれない。それにしても、『レッド』などに興味が尽きないのはなぜなのか? 答えはしらない。

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