『反出生主義を考える』(「現代思想2019年11月号」)を読む

おれは反出生主義者である。

 

おれが反出生主義者になったのは、エミール・シオランを読んだからではない。ましてやデイヴィッド・べネターを読んだからでもない。

 

おれの反出生主義は、おれというおれ以外にいないおれが生きてきてたなかで、自然とそうなったものである。その背景にいくらか仏教の影響(おれの考える仏教が仏教として正しいとは言えない)があったかもしれない。

 

おれが「これだ」と思った瞬間については記録がある。

 

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おれはおれを反出生主義者ではないかと思っている。詳しいところはわからない。以前、おれはブックマークにこんなことをメモした。

やはり人類の絶滅こそが一番正しいのではないだろうか?

べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。

2018/06/11 14:18

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おれはこれを書いたとき「これだ」と思った。べつにだれの言葉の引用でもない。おれの内から湧き出た言葉だ。ひょっとしたらだれかの影響を受けているのかもしれないが、それを言い出したらキリがない。ここに今叩きつけている言葉そのものも影響だろう。ともかく、「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはおれの生命観、人間世界観のど真ん中に据えてもいいように思えた。

 

「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。

 

今いる、というのはたとえばおれ自身であって、おれはこれを理由にした自殺を肯定しない。あるいは、生産性がないとか、そんな理由で他者を殺すことも肯定しない。これ以上増やさなくてもいい。これである。

 

現代思想」……という雑誌があるのをおれは知らなかった。いや、そんな名前の雑誌があるかないかとクイズを出されたら、「ある」と答えるだろうが。今回、この雑誌を買ったのは、「反出生主義を考える」という特集による。おれにこの雑誌、この特集を教えてくれたのは、Amazonである。

 

これは、買うしかないだろう。おれは『カイエ』を含むシオランの著作を日本語で読める限りは読んだ。デイヴィッド・べネターだって読んだ。

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しかし、上の感想文を読んでもわかるように、おれはべネターについてあまりよい印象を持っていない。著書から、いきいきとした魂の躍動、どろどろとした臓物の陳列、倦怠の中の悲哀……なんにも感じなかったからだ。

 

こいつは、シオランとは違う。おれはそう思った。しかし、反出生主義を現代の思想の言葉、哲学の言葉、そういった手順や手法(分析哲学?)で論じているのだろうと思った。その意味では、こっち側のやつだ。

 

いうまでもないが、おれは高卒のうえに「現代思想」を読んだこともないので、その論理や理屈がわからない。目が滑る、という。

 

して、「現代思想2019年11月号」にも目が滑ったのか。ある意味では滑ったともいえる。おれはハンス・ヨナスやレヴィナスを知っていることを前提に話されても、「誰それ? 何産駒?」といったところだからだ。

 

とはいえ、食い入るように読んだ。三回くらい読んだ。興味があるものにはそのように食いつく。あるいは、乾いた砂の入った壺に、水を注ぎ込むがごとく、だ。

 

して、冒頭の対談にこんな言葉があった。対談でなく「討議」か。

森岡……そのとき私はべネター本人に会っていろいろ話をしました。彼は本を書いたり、講演をしたりするときはすごく極端で、徹底的にネガティブなことばかり言うのですが、実際に会ってみると非常に話好きで、まめな人です。この人があんな主張をしているのかと思うぐらい、いいやつです。ただ、私がベネターについて結局よくわからないのは、生まれてこなければ良かったという主張を、彼がどこまで彼自身にとっての実存的な問題として主張しているのかということです。反出生主義に対する批判への彼の応答を聞いていると、やはりどこか分析哲学の知的なゲームとして捉えている面があるような気もします。P.11

前半についていえば、あのシオランとて対談集を読めば、いや、読まずとも徹底的なネガティブのなかに、なんらかのユーモアを感じることができるし、そういうものだろう。問題は後半であって、「分析哲学」、「知的なゲーム」というのは、おれがべネターの本に感銘を受けなかった理由でもあり(おれの知的水準の低さでもあり)、「反出生主義=べネター」みたいな風潮に(少なくとも今号の『現代思想』については)、「ちょっとまってくれ」と言いたくなるのだ。

 

まあ、要するに、みんな、シオランを忘れないでくれよ、ということだ。この特集のいくつもの記事において、シオランをまともに取り扱い、取り入れてくれているのは、木澤佐登志という人の「生に抗って生きること 断章と覚書」くらいだ。断章だ、シオラン風だ。最初の最初にこう書いてある。

 反出生主義は「生」に対するひとつの様式(スタイル)であり、ひとつの実践である。あるいは、それはエートスであり、倫理的態度である。もしくは、シオランの言葉を借りるなら「ひとつの個人的経験」である。p.27

この「断章」に取り上げられている、ある福祉作業所の理事の言葉と、相模原の事件の犯人の言葉が似通っているというのは、まさにそのとおりだと感じた。それがなんなのかは、買って読め。

 

本書の目玉といえるかもしれないのは、デイヴィッド・べネターその人の論文だろう。これを読めば『生まれてこなければ良かった』を読まなくても、あるいはいいかもしれない。というのも、この論文は『生まれてこなければ良かった』へのさまざまな学者からの反論に対する再反論だからだ。とはいえ、おれはこれについて先に述べたように、あんまり興味がない。いや、興味はあっても理解できんので、読みはするがスルーする。その上でさらに、ベネターがなぜ反-反出生主義者の直観というものを、そんなに確固たるものと感じているのかわからん。おれには反出生主義者の直観がある。まあ、それだけだが。

 

そしてページを進めると出てくるのが佐々木閑「釈迦の死生観」である。釈迦の実在と、べつにそんなこたどうでもいいんだ、という話から始まる。おれはなにか安心した。「現代思想」よりは慣れている仏教の話であり、佐々木閑の本も何冊か読んだことがあるからだ。

・佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』を読む - 関内関外日記

 

・くだらなく素晴らしい完全年功序列とは? 佐々木閑『出家的人生のすすめ』を読む - 関内関外日記

 

・マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみても意味がない 『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』を読む - 関内関外日記

 

・『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』を読む - 関内関外日記

 

……ふむ、おれみたいなものの感想文でも、なんだかこの「釈迦の死生観」で言ってることが、すこしわかりやすくなったような気がするぞ。で、論文の最後の方でこう述べている。

 

ベネター氏の主張は、仏教の出家修行者の思考とほぼ同一線上にいあると思われる。p.161

が、しかし、しかし。

ただ大きく違うのは、仏教の場合、そういった考えが、仏教僧団という特殊な島社会だけの局所的なものだという自覚を伴っている点である。p.161

と。そして、「生まれてこないほうが良かったのか」という問いは仏教とは無縁と言いきる。上に列挙した本のなかの表現で言えば「私たちの存在はたんなる構成要素のゆるやかな集合体」にすぎないのだから。そして、さらなる死後の生をあると考えるのと、現在の生ですべて終了するのと、どちらが真の楽かが問題だと。「生きることはひたすら苦だ」と思い至った人間のためだけにある。(釈迦の)仏教の方がクールかもしれない。

自分の利害より先に、子供の利害を慮って「子供はつくるな」というベネター氏は心の優しい人である。仏教はこれよりはるかに冷酷であるが、ただそれを、そのような価値観を選択する特定の島社会にだけ限定して適用したところが智慧深い。p.162

そして、「生きることは苦である」とする人、一部の人へ適用される真理と見たとき、べネターの思想に「輝きが出る」とおっしゃる。なるほど。しかし、こうやって、ほんのわずかな読者のなかの、さらにわずかな人に、なにか渡せるかもしれないと思って、つらつらブログ書いてるおれも心の優しい人だな、たぶん。

 

あとはなんだろうか、ダナ・ハラウェイという人の「子どもではなく類縁関係を作ろう!」(Make kin Not Babies!)の考え方が紹介されていて面白かった。逆卷しとねという人の論文だ。買って読め。ちなみに、「注」にこんな文字列があったぞ。

(28)はてな匿名ダイアリーブログ「子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。」(https://anond.hatelabo.jp/20130613154103)のように、生まれてきたことの苦しみを親に対する恨みへと転嫁するケースは非常に多い。

増田、見られてるぞ! つーか、おれ、ブクマしてないな。読んでなかったか、言いたいことが整理できていなかったのかもしれない。

 

……とまあ、こんな感じ。どんな感じ? と、思ったら、買って読め。それより前にシオラン読め、シオラン

しかしなんだろうね、なんか『アベンジャーズ』や『ドラえもん』、『進撃の巨人』そんな話をしたり、枕に持ってきたりするのが「現代思想」的なのかね。だとしたら、次の号は映画『ジョーカー』だらけになるんじゃねえかとか、まあほんとうにどうでもいいことを思った。たぶん次号買わないけど。

 

最後にシオラン先生の言葉を置いておこう。

 たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。

 

以上。

 

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……あれ、ここで「二点についてまとまっている」って書いてある二つ目、まさに佐々木閑の言う仏教的態度じゃん。おれ仏教徒? やったー。

 

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……このあたりから入っていいかもしれない。

 

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……シオラン先生おおいに語る。

 

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……そして、老いてますます盛んなのである。圧倒的な絶望と自殺への思いと反出生主義をいだきながら、好物のコーヒーを断ったりしつつ84年生きたのだよ、シオランは。そこがいいじゃないか。

 

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

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 べネター。ところで、なんでこの本、Amazonに書影ないん?

 

 

Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence (English Edition)

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 英語読める人は英語で読めばいいよ。