……このように宗教とは、人間だけが持つ独自の不幸をどうやったら消し去ることができるのか、という課題に答えるために生み出された解決策なのですから、神のあるなしは宗教であるかどうかの基準にはなりません。「人は、存在しているだけで不幸である」という世界観と、「その不幸を取り除くための方法がある」という確信、この二つの条件を備えた精神活動は、皆宗教と呼ばれるべきものえす。繰り返しますが、釈迦が作った仏教は、基本的に絶対神の存在を認めません。この世は原因と結果の因果関係によって機械的に動いていくと考えます。これを縁起といいます。
「仏教を知らない人に仏教を説明してください」という試験問題が出たとしたら、おれなどは「諸行無常」、「諸法無我」、「一切皆苦」を正しく認識し、その世界から抜け出す実践的で論理的な方法です、とでも答えるだろうか。……おそらく正解ではないだろう。とはいえ、ボールは一応捕手の方へ向い、三塁方向に飛んでってはいないのでは、くらいに思っている。とはいえ、真の、ないし信の部分において正答の言葉はなく、場合によっては「試験官をぶん殴る」で合格、という可能性もある……とくに禅宗では。
というわけで、「律」の専門家であるところの佐々木閑先生の新書である。日本の大乗仏教より原始仏教を専門としているだけあって、「出家」というものも大乗仏教のそれとは違い、あくまで本来の仏法僧における「僧」、サンガ(出家者の組織)というものがベースである。
出家とはいったいなにか。それはひとことで言うなら、「世俗の暮らしでは手に入れることのできない特別なものを求めて、世俗とは別の価値観で生きる世界へとジャンプすること」です。
ジャンプを浄土真宗の言葉で言うならば「超横」とかになるのだろうか、わからんが、そういうことだ。とはいえ、この「ジャンプ」は密教の修行のような秘儀や神秘性があるわけでもない、という。
「毎日、心を集中して自分の内面を観察し、無明の悪作用を探してつぶす。これを繰り返して行うことで人は必ず少しずつ自分を変えてゆくことができる。時間はかかるが、それが無明を消す唯一の、そして確実な方法である。そしてそれが、最終的には苦の消滅へとつながるただ一本の道である」
時代もなにもかも関係ない、「天下の公道」という。
とはいえ、「天下の公道」を走るにしたって、この肉体を持った生き物、生きていかねばならない。具体的にいえば、いくら出家した志のある(志も一種の執着、煩悩かもしれないが)お坊さんであろうと、食わなければ死ぬし、金属バットで殴り続けたら死ぬ。いや、金属バットで殴らないでください。
仕事をやめて出家して、自分の生きがいである修行ばかりやっているのですから、生活の糧、つまり食べ物や飲み物や着る物を入手するすべがなにもないのです。住む場所もありません。言ってみれば、釈迦をはじめとしたサンガのメンバー全員が、住所不定でしかも無職という状態なのです。そのままなら全員、餓死してしまいます。
そこで釈迦が言ったのは「パソコン屋をやれ」でも、「駐車場経営をしろ」でも「葬式のお布施で稼げ」でも「立派なお寺と仏像をたてて拝観料をとれ」でもなく、「世の中の、働いている人たちに頭を下げて、生活の中の余った物やいらなくなった物を分けてもらい、それで生きてゆけ」。なんとも脆弱で、しかも虫のいい話。が、このスタイルが南伝仏教……いわゆる上座部仏教では二千五百年続いた。だから、伊達じゃない代物なんだよ、と著者。
そして、それゆえに「律」、「戒律」が必要となる。要するに、人は駐車場経営でうまくやって、ベンツを乗り回している生臭坊主にお布施なんかしたくない。葬式でわけのわからんお経を唱えて自分により稼ぎの多い坊主に、なんで金を出さなきゃいかんのか。……というのはおれの意見だけれども、そういうのが人情いうものではなくて? でかい寺の跡取りに生まれ、何不自由なく物質的に豊かな人生を送れる見込みのある坊主、いい女を助手席にBMWを乗り回して世俗の人生を謳歌している坊主、そんなもの金属バットで殴りたくもなるというもの。
……話を「律」に戻すと、出家者がそう思われないように、戒めというものが必要になり、その戒めをあらわしたのが「律」である、と。ただし、「律」の定めるところは、あくまで「悟り」の邪魔を排する規律であって、人殺しは人殺しでサンガから追放するけれども、世俗の罰は世俗の罰として世俗の法律で勝手に裁いてくださいね、というところ。
そう、出家の世界とは世俗とは違う。たとえば、著者はこんなふうに言う。
まず第一は、サンガ内での上下関係の「いい加減な」設定条件です。「いい加減」というのは、もっと率直に言えば「くだらない」ということです。これが素晴らしいのです。
サンガの上下関係。悟りに近い立派な人が上なのか、たくさんの経典を覚えた人が上なのか。いずれも違う。
サンガの中でのお坊さんの上下関係、たとえば坐るときの席順とか、部屋割りの割り当て純とか、そういった優先順位をつけなければスムーズに事が運ばないようなときの上下関係を、どういった基準で設定するかという問題に対して釈迦は、「出家して僧侶になってからの時間の長さで決めよ」と言ったのです。
完全年功序列。これである。
このように上下関係が「くだらない」基準で定まっていると、「人を追い抜いて上に昇っていこう」とか「早く上に昇って権力を握りたい」という気持ちが全く起こらないからです。
道元あたりの宗派じゃ、日常生活のあらゆることが事細かに決められていて、それは生活というものをオートマチックにすることで、悟りの邪魔になるものを排するという考え方なんだけど(ゆえに曹洞宗は上座部仏教に近いという話もある)、なんというか、「くだらない」から逆に問題が起きない、というのはすごい発想。
いや、実際、人間というのはしょうもないものだから、上座部仏教のサンガでもっとくだらない権力闘争がなかったとも思えんのだけれど、まあそれでも二千五百年続いてきたぜって言われたら「ア、ハイ」としか言えんよな。二千五百年、たとえばキリスト教の「教皇」のようなものも頂かず、ピラミッド型の一極集中式の組織も作らず、ある種ネットのようなゆるいつながりで生き延びてきたわけだ。
一方で、日本と来たら、こういった「律」が入ってこなかったわけであって……鑑真上人を呼んだところで、サンガは作られなかったし、むしろ国家宗教の血なまぐさいところに、政治や官僚組織に取り込まれるところから始まってしまった……まあそれでも鎌倉やそれ以前の仏教もよく続いてきたといえるだろうか。でも、やっぱり世襲で肥え太った坊主は金属バット(以下略)。
で、本書の後半は「誰にでも出家はできる」「自分の力で自分の生き方を変える」「出家的人生を実現するために」なんて章題がついている。たとえば、宇宙の起源を考える科学者なんかは世俗の発明とはちがって出家的だ、とか、企業の中に直接利益を生み出さない部署があってもいいだろう、とか、ひきこもりやニートという存在も社会にとって必要な価値を生み出すかもしれない、みたいな話になる。ダイバーシティ大切に、というところか。でも、そういう話になると、「そういう人間を養っていけるだけの財がこの日本に残っているのだろうか」とか思ってしまうんだけどな。いや、財はどっかにあるのだろうけど、即座に結果を出し、さらに財を増やすために使われているのだろう。
もちろん、世俗の、おれのような俗人の貧乏人にとっては、景気がよくなければ路頭に迷うだけであって、「税金を超弦理論研究にものすごくぶっこみます」とか「社会保障費をブラックホール情報パラドックス研究に回します」とか言われたら反対するだろう。……そういうのは、金持ちの坊主が布施で得たものを布施でやってくれ、勝手に、となる。そう、坊主だ。同じこともこの国の坊主にも言えてしまう。少なくともそこらの寺の坊主になにかありがたみがあるとは思えない。むしろ、下手すれば「信」の外にいる仏教学者の方がありがたいように思えてしまう。それはそれで功利的な考え方で、仏教から外れてしまうわけだけれども。なあ。
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……この本読んでいて「なーんか、こういう話あったな」と思ったが、たぶんおれの中では中島義道だ。
……えーと、この本じゃなくて。
これかな? 感想文ないけど、たぶん読んだし、なんかほら、タイトルも「出家的」だ。中島義道は、この世を生きるのが苦手なやつは「哲学しろ」というところに持っていく。うん、どっか似ている(とおれは勝手に納得する)。