南直哉『語る禅僧』を読む

 

語る禅僧 (ちくま文庫)

語る禅僧 (ちくま文庫)

  • 作者:南 直哉
  • 発売日: 2010/11/12
  • メディア: 文庫
 

著者いわく、自分は自分の著作の話をされるのが嫌なタイプらしい。排泄物の話をしているような気になるし、排泄物をしげしげと見ないように、自分の本を読み返さないという。

が、この本は別だという。この本(の元になった単行本)は処女作にあたる。

 子供の悪戯の責任を親が取るときに似ているかもれない。また、なにか書いたり話したりしなければならなくなったとき、不意に思いついて、読み直すことがある。ときとして、自分がどんな子供だったかを親に聞きたくなるような気分で。

 思うに、それもこれも本書が出家以来の、いや幼児期以来の私のものの感じ方や考え方を全体的に捉え返し、私自身の僧侶としての、あるいは仏教者としての在り様を最初に言葉に落とし込んだものだからだろう。仰々しく「半生記」めいたものを書いたのも、私にとっての仏教が、単に崇め奉る教えではなく、生きていく上で決定的に重要なツールになった所以を、確認しておきたい気持ちがあったからである。

「文庫版あとがき」

という本書、読み終えて、読書感想文だか読書メモを書こうとして、これがなかなかに書けなくて困った。普通の(?)仏教に関する本なら、付箋をつけた箇所を読み直し、自分のためのメモを残すのだが、この本はどうにもそうはいかず、伸ばし伸ばしになってしまった(べつに書かなくてはならないものでもないし、締切だってもちろんないのだけれど)。

それもこれも、著者があとがきに書いているような本だからかな、などと思ったりしたので、とりあえずそれを書く。

解説の宮崎哲弥によれば、著者も宮崎も仏教がなければ自殺していたであろう人間だという。南直哉の他の本でも読んだと思うが、たまたま教科書に載っていた「祇園精舎の鐘の声」を目にして、今まで生き難さに新しい地平を感じたこと、そして、高校生のときに偶然見た道元のこの一節に強烈な一撃をくらう。

 

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。

そして、べつに寺の子でもなかった筆者は、一度は大学を出て就職するも、職を辞して出家する。それだけ切実なのである。小さな頃は、死を知るために虫や小動物を殺したりまでしていた人間の、切実なるもの。

おれにその切実さがわかるだろうか。わかりっこない。だからといって、おれにはおれ自身のある種の切実さがないとなれば嘘になる。そして、人間のなかに大きな切実さを持った人間がいるということはわかる。釈尊もその一人であったのだろう。同じような人間が時代を越えて存在して、文化も文明も変わってしまっても、人間存在いうものの根底のところでつながっている。これはたいへんなことである。

それはもちろん、人間がまだ生老病死を克服していないこともある。おれなどはその克服として反出生主義に傾いているのだが、ともかくそういうことなのだ。

 

……私たちは選択の自由があって生まれてきたわけではないし、死ぬのに理由を教えてもらえるわけでもない。それは単なる事実として、無根拠にこの世に炸裂する事実、すなわち「問い」である。

 始めと終わりに根拠がないのに、中間にそれがある道理もない。ならば、全体として、それ自体、無根拠で無意味である。我々は、意味や価値があって生きているのではなく、生きていることが意味や価値をつくることなのだ。これを称して仏教では、「諸行無常」と言う、のだと私は思う。なにも、○○のため、という考え方は有害無益だからやめてしまえ、などと言いたいのではない。そうではなく、私たちの生を無条件に、最終的に保証してくれる○○は存在しない、と言いたいのだ。

―『「何故に」か、「如何に」か』

そして、生と死についてこう述べる。

 人は普通、生きている時間が死で途切れ、その後別の時間、それこそあの世の時間が続いていくように思いやすい。が、それは違う。生の時間と死の時間は並行に流れる。命の終わり生の終わりではなく、生と死の終わりである。この命を称して「生死(しょうじ)」と言う。

 言うなら、死は生にかかる重力だ。死のみが生に重さを与えうる。底の抜けたバケツに水が入らず、期限のない借金が借金でないように、死なない生は生ではない。

―「生と死と生死(しょうじ)」

あるいは。

 「人は死ねばゴミになる」という覚悟で安心立命、見事自分と別れることができれば、それもひとつのテクニックだ。けれど、お葬式をつとめるようになってから、私はこう考えることもある。――根拠もなく生まれ理由なく死んでいく自分を本当に赦すことができたとき、そこに「涅槃」があるのではないか。

 「なすべきと信じたことは、なし得る限りなく終わった。もう思い起こすことはない」

 釈尊の迎えた美しい死は、そういう赦しだったのだろう、と。

―「別れの意味」

そうだ、われわれは根拠なく生まれてくる。「私たちは全員例外なく、この世に一方的に放り出され、仕方なく生き始める」のだ。この受け身でしかないわれわれが、そのしょうがなさを積極的に受け入れるところに、なにかがあるのかもしれない。とはいえ、この本来を忘れて生き生きと生きることが本当の答えかはどうかはわからない。競争して突き進むことが。逆に曹洞宗のお坊さんともなると、突き進まない。むしろ動かないで座禅する。その切実さというものよ。

 

「頑張れ」という言葉は、時には人を傷つけ、追い込む。なぜか。なぜならば、人は初めから、しょうがなく生きているからである。確かな積極さは、この「受け身」であることの深い自覚からしか出てこない。

―「しょうがないなぁ」

人は望んで生まれてこない。しょうがなく生きている。これはおれにとってまるで当たり前の考え方である。言われるまでもないといえる。が、おれのほかにそう考え抜いて、生き抜く人間がいるということは、なにかの救いのようにも思えるのだ。そうじゃないか?

 

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com