『禅と福音 仏教とキリスト教の対話』を読む

 

禅と福音: 仏教とキリスト教の対話

禅と福音: 仏教とキリスト教の対話

 

 キリスト教の場合、「神がこの世界をつくった」とか「最後の審判がある」ということが神の言葉として聖書に出てくる以上、これを否定したらキリスト教にならない。ところが仏典は、どこからどこまで読んでも、悟った瞬間どうなったかといった話はない。ニルヴァーナがどういう状態なのか、ニルヴァーナが何であるか、まったくわからない。

 結局、一番肝心要のことは読んだ人間が想像して解釈するしかない。その真偽を判定する根拠はパーリ経典のどこにもない。テーラワーダの人が何を言っても「あんたはそう思うのね」以上の話にはならない。

おれは仏教本をいろいろと読んでいたが、仏教徒と異教徒の対話本というものは読んだことがなかった。山折哲雄テーラワーダアルボムッレ・スマナサーラの対談は多少そういう要素を含んでいたかもしれないが、やはり仏教同士の対話であった。

して、この本は曹洞宗僧侶とカトリックの司祭の対話なのであって、ガチンコの対話なのである。おれは南直哉の本を読んだこともないし、来住秀俊の本を読んだこともない。ただ、ちょっとページをめくってみて、「これはいいかも」と思ったのだ。決して、南さんがテーラワーダを叩いているから、という理由だけではない(おれがテーラワーダに対する違和感を持っているので、それも理由ではあるのだけれど)。

とはいえ、南さんが仏教ど真ん中の人かと言うと、自らそう述べているように、そうでもないような気がする。

 申しわけないが、私は他の仏教者の話を聞いていらだつことがよくある。みんな「無我だ」「無常だ」と言うけれども、「無我」や「無常」で何を考えているのかよくわからないからです。みんな平気で裏口から超越的なもの、いってしまえば「神もどき」の何かを持ってくるのに、無常も無我もないだろう。

 そんなことを愚痴っていたら、ある人がこう言った。

「そりゃあ、南さん、みんないい人になりたいからですよ。みんなを癒せるきちと結論を出して、みんなを安心させるいい人になりたいんですよ」

 そして、その人はこう続けたんです。

「ところが、南さんは人が悪いから、人を決して救おうとしないじゃないですか」

 そういわれれば、そのとおり。仏教ではニルヴァーナにならないかぎり救われない。ただ、救われるかもしれないという可能性に賭けて実践するしかない。

 だからブッダも人が悪いと私は思う。一番肝心なことを言わないのに、「修行しろ」「いつまでも修行しろ」と言いつづけるのですから、あれほど人を不安にさせることはない。

 ブッダも人が悪い、なかなかお目にかかれないかもしれない言葉かもだ。梵天勧請じゃないが、たしかに釈尊には人々を安心させようという絶対的な意志はないようにも思える。そして、その思想がどこでどうなったが絶対他力ということになっても、親鸞聖人を安心させない。仏教はハードだ。

ではキリスト教はどうなのか。

来住 ……神と一緒に歩いているといっても、まったく対等の友人ではないことは確かですが、「おれについてくればいいんだ」というのではない。この先まだ山がいくつもあるけれども、手をつないで一緒にいこうという姿勢なのです。

 道案内もしないのですか。岐路にさしかかったとき「こっちだよ」とも言わない?

来住 神はいろいろ相談に乗ってくれますし「こっちのほうがいいと思うんだがね」といった話をしないこともないですが、神が決定するのではありません。キリスト教は人間が責任を持つ宗教です。最終的には、人間は自分で識別して自分で選択しながら歩まねばならない。神はそれをサポートします。

 しかし識別をサポートするのであれば、案内人ではないでしょうか。

来住 わかれ道に来たときに「絶対こっちだよ」といえば案内人かもしれない。神はせいぜい「こっちかもしれないね」程度のことしか言わない。

 選択の責任はあなたにある、ということですね。

来住 そうです。人間が神の似姿であることのポイントのひとつは、責任の主体だということです。神とともに歩んでいても、人間が自分の責任で決断をしなくてはならない。

ふーん、そうなのか、人間が神の似姿であるというのは、責任の主体でもあるという。ほとんどキリスト教については、その信の構造については知りもしなかったが、そういうところもあるのか。

あるいは、こんな用語についても。

 「天国」と「神の国」は別なのですね。

来住 そうです。聖書の言葉でよく誤解されるのですが、「天の国」と「神の国」は同じものであって、しかし、「天国」とは別ものです。

 「天の国」と「天国」が違うのですか?

来住 天国は英語だと「ヘヴン(Heaven)」。神の国は「キングダム・オヴ・ゴッド(Kingdom of God)」とか「レイン・オヴ・ゴッド(Reign of God)」、つまり「神の支配」です。つまり天国は、人間が死んだあとすぐ行く三つの場所―地獄、煉獄、天国のひとつであって、そのあとの未来、キリストの再臨があるときに現れるのが神の国、あるいは天の国なのです。

ふーん、浄土→涅槃のようなものだったのか。

聖書について

 確かに私も、あるキリスト教の信者さんに、「聖書に書かれてあることは、聖書のなかのこととして信じる」と言われたことがあります。これが普通なんでしょうね。

来住 それはよい表現ですね。聖書のなかでイエスが関わる物語は、確かに歴史的に二千年以上前地上に住んでいたイエスと繋がりを持っています。イエスについて誰かが克明にメモしていたわけではない。しかし信仰の共同体がその物語を共有していった場合、それは信者にとってはひとつの現実です。

フラウィウス・ヨセフスが書き留めた史的イエスと、聖書のなかのイエス。「聖書のなかのこととして信じる」。西洋科学文明と聖書との矛盾や乖離、そのあたり、そのようにして乗り越えてきたものなのだろうか。

一方で、日本の仏教が乗り越えてきたかどうかあやしいところ。

 ……だから明治の太政官布告のときも、たとえば宗派で「師家は独身でなくてはならない」というふうに決めてしまうべきだった。臨済宗はその経験があります。曹洞宗も「師家になる以上は独身を宣言してください」と決めて、一定規模の独身者を担保すべきだった。

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おお、そうなのか、おれの長年の疑問である太政官布告に対する仏教徒の態度について、こう言い切ってくれるのを見るのは初めてかもしれない。

そんで、話は飛ぶけど自死について。

来住 南さんにとって、本人の意志で生きるのをやめることは絶対的な悪なのですか。

 悪とは言えないと思います。自殺を悪いという根拠はない。ただ私は「やめてほしい」と言う。そうでないと、よきものが生まれる余地がなくなると思う。

来住 それは、キリスト教が、創造がなければ苦しみもないが、よきものもないと考えるのと似た考えの筋ですね。私にも納得できます。

ふーん。もうすこし突っ込んで、反出生主義というものについても語り合ってほしかった。キリスト教については、「よきものもない」というところに着地するのかもしれないが、仏教もそうなのか? 一切皆苦に人間を放り込むことはどうなのだろうか。

カトリックについて。

来住 ……カトリックは自分の考えを絶対視せず、教会の教えや先人の知恵を重視して、常に自分を相対化する気持ちを持っています。それでもなお、「神と私」だけの良心の法廷があるのです。キリスト教に関心を持つ人たちに、これはぜひ知ってほしいことです。

自分の考え≒理性を絶対視しない。このあたり、本書の最後の方で語られる反左翼的な、あるいは保守的な考えにつながっていくのかもしれない。いや、おそらくはそうだろう。人間というものの理性、理屈を絶対視しない。そこに保守思想というものがある。違うかもしれないが。

来住 ……しかし、多くの場合、人が何かを肯定的に言ったときには、何かいいものが含まれているのです。ゲーテは確か「人が肯定的にものを言うときには、完全にまちがっていることはない」と言っていたと思います。

とか。

えーと、それでなんだ、本書はわりと仏教とキリスト教の尖った人同士の対話ということもあって、それゆえにスリリングでもあり、逆に合致するところもあったりというところだろうか。もっと凡庸な、といってはなんだけれども、それぞれの宗教のメインストリームの人同士では、ここまで突っ込んだ対話にはならなかっただろうな、などと思ったものである。そして、ようわからんなりに、キリスト教なるものをもう少し学んでみようかなどとも思った次第である。あくまで、「みようか」なのだけれど。とりあえず、以上。