おれはなんのために本を読むのか? おもしろいからだ

またまた寄稿いたしました。

 

blog.tinect.jp

独学? おまえのはただの読書だろ? という話になるが、自分としては一人で学んでいるのだという気分もいくらかあるのでご容赦いただきたい。

上の記事で取り上げたのは小室直樹の『天皇の原理』である。一人で読書する高卒の学のない人間が小室直樹は危ない。そういう気はするが、これがおもしろいのだからしょうがない。すごくおもしろい。

なにやら「予定説」の話ばかりしているが、その後の話も興味深い。キリスト教がなぜ世界的大宗教となり得たか。

 

イエス・キリストは、人間の内面のみを問題として、外面的行動を問題にはしていない。福音書はトーラーやコーランとちがって、法源とはなり得ない。

 

キリスト教は元来、戒律も法(律)も持たなかった。姦淫するな。行為規範から心情規範への大転換。これによりキリスト教は世界的大宗教足り得た。

 

このあたり、ズバッとくる。なるほどなあという具合だ。やっぱり納得して、楽しくなってしまう。

 

行為規範から心情規範への転換という意味では、日本仏教にもあった。最澄がやった。

最澄の「自誓受戒してよろしい」。これが致命的重大さを持つ。外面的儀式から内面的信仰へ。日本仏教の無戒律化だ。法然、そして親鸞へと内面的信仰化は進む。パウロとも比較されよう。

 

「ただ信のみ」までは同じ。キリスト教は「神はイエスを死からよみがえらせたもうた」を信じなければならない。これがキリスト教の本質。

 

実体的な阿弥陀如来が存在するなんていうことを信ずれば、仏教の外にとび出してしまう。仏教の論理から外れるからである。

 

あるところまで同じ。しかし、その先が違う。なるほど、仏教は空だ。「ひきよせて むすべば柴の庵にて とくればもとの 野はらなりけり」。キリスト教にはファンダメンタリストはありえるが、仏教にはありえないのだろうか。ありえないかもしれない。

 

それにしてもなんだ、『天皇の原理』だ。そこで「天皇の死」として取り上げられたのが承久の乱なのだから、去年『鎌倉殿の13人』を見ていてよかったと思える。天皇上皇)に弓を引いていいものか。北条泰時はそれまでの価値観の通り、それはいけないことではないかと考える。しかし、父の北条義時が持ち出してきたのは、「天皇は正しい」という価値観から、「良い政治をするものが正しい」という価値観だ。この大逆転を、著者はポツダム宣言受諾、天皇人間宣言と同じくらいの重大事という。最終話にそれだけのものが詰まっていたのか。いたんだろうな。そんで、その『鎌倉殿』の最終話で徳川家康が出てきて『吾妻鏡』の愛読者だったと次シーズンの顔見せサプライズをしてみせたが、家康だ。家康も湯武放伐論を林羅山から学び、いたく感動したという。その徳川幕府が初期に起こしたのが紫衣事件であって、なるほど歴史はつながっている。

 

……なんの話だったか。なんだっけ。独学、読書の話か。なんだろう。なんでおれは本を読むのだろうか。なにか学びの真似事をするのだろうか。ビジネスマンとして教養をつけてよりよい稼ぎを得るためか? そんなわけがない。いや、よりよい稼ぎはよい。しかし、『神皇正統記』における承久の乱のあつかいを直接読んでみようか、とか思ったところで、仕事のなんの役に立つというのか。なんの役にも立たない。

 

ただ、おもしろいから読んでいる。おもしろいのだ。上のだらだらをだらだらと書いているとき、おれはおもしろい。おもしろくてならん。むろん、正解を見つけたというわけではないのは重々承知だ。そこを見誤ると独学の陥る罠だ。ただ、なにごとかがつながって、自分の中で回路が形作られていくのが楽しい。

 

その楽しさをおれはなんと名付けられているのかわからないし、他人が同じような感覚なのかわからない。だが、おれは勝手に一人でやる。それだけだ。

 

「天皇」の原理

(仮)「天皇」の原理