『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』を読む

 

信仰は魂に属するが、宗教は知識である。

 ……と池澤夏樹が書いていた。おれが仏教についてアプローチするのはもっぱら後者である。善知識ではない、知識として文字を追うだけのことである。

が、おれは体系的に学問を修めたことのない高卒である。客観的に順序だった方法で学ぶ、という方法を知らない。いきなり山頂付近に落下傘で降下したかと思ったら、洞穴を見つけて入ってみたら中腹の密林に出た、少し歩くとワープスポットがあって、わけのわからない原っぱにいた、とかそんな感じである。いきなり怪しげな松岡正剛空海論から入り、鈴木大拙にはまり、吉本隆明親鸞論を読んでいたり、いまさらながらにテーラワーダについて知ったりする。

なにごとも基本からだ、そう思う。そういうわけで、本書の表紙に書いてあることに答えられないことからして、とりあえずこの本から歩みだそうかと思ったしだい。ちなみに、表紙はこう問いかけている。

般若経法華経華厳経浄土教密教……

同じ仏教なのに、どうして教えが違うのですか?

釈迦の説いた「自己鍛錬」のための仏教は、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、「衆生救済」を目的とする大乗仏教に変わっていったのか――。

著者は原始仏教、そして律の専門家である佐々木閑。彼が講師役となり、一人の青年の問いに答えていくという対話形式になっている。一人の青年とは、著者が実際に教鞭を取る中で出会った社会人学生をモデルとしている。じつにわかりやすい。おれの日記も対話形式にしようか(しないけど)。

して、「釈迦の仏教」(本書ではブッダの直接の教え、原始仏教をそう呼ぶ)は出家し、サンガを作り、すべてのパワーを涅槃への到達に注ぎ込むという、自力の宗教であった。これが、いつから在家信者が日々の行いで仏を敬い善業を積み、あるいは積まないでも成仏できるという考えに変わっていったのか。

講師 意外に思われるかもしれませんが、じつは仏教は本来、輪廻や業といった考え方を除けば、非常に合理的かつ論理的で、超越的な神秘性や不思議な救済者といったものは存在しないと考えます。つまり、苦しみが生じるメカニズムと、それを消すための修練方法の提示こそが「釈迦の仏教」の本義なのです。そうした意味では、「釈迦の仏教」よりも、神秘の存在を認めた大乗仏教のほうが、よっぽど宗教らしい宗教だと言ってよいかもしれません。

話は前後するが、禅の本などを読み始めたときによく思い、実のところ今も半分くらい不思議に思っていることがある。仏教世界のなんとか如来とかなんとか菩薩とかそういった存在や、それをかたどった仏像というものは、なぜ必要なのだろうか、と。教えが書いてある経典は大切だろう。だが、なぜ神(のようなもの)を必要としたのか。そして、そこに信仰の場になっているのか。

まあいい、そして、「青年」の疑問は「なぜ仏教みたいなストイックなものがインド全土で流行していったのか?」というところになる。

講師 私が注目したのは「多様性」、つまり選択肢の広がりです。一つの教えが様々に枝分かれしながらも、それぞれが否定し合うことなく、仏教という一つのジャンルの中で併存できたことが、仏教が世界に拡大していった最大の理由だと考えるのです。

本書で取り扱う大乗仏教にもさまざまな宗派があるわけだが、そのように多様化していったのは、なんとアショーカ王の時代からだという。「部派仏教」だ。そのスタイルが生まれたのは「破僧の定義変更が行われた」ことによるという。破僧とは、釈迦の教えに背き、サンガの分裂行為、新しい教団を立ち上げる行為を言う。となると、考え方や解釈によって「部派」をつくったこと自体「破僧」になるのだが……。

講師 これはまさに私が研究したことなのですが、「釈迦の教えについて互いに違った考え方や解釈を持っていたとしても、同じ領域内に居住し、〈布薩〉や〈羯磨〉をみんなと一緒に行っているかぎりは破僧ではない」というのが、この時に作られた新しい破僧の定義です。 

 〈布薩〉と〈羯磨〉は月イチの反省会や会議みたいなこと。これが、アショーカ王の時代に書かれたとされる「摩訶僧祇律」に記されているという。この大変化があったことで、仏教がときに世界三大宗教にまでなったと著者は言う。

なるほど、しかしなんというか、平和な話である。キリスト教のように公会議を開き、なにが正統でなにが異端かを白黒つけて展開していくのとは、趣が違う。むろん、キリスト教にも大きな宗派、そしてその下やそれ以外のところにさまざまの宗派があるのだが、そこにはどうも闘争を勝ち抜いていた感がある。今、マルキオン派の教会に入信することはできない。いや、宣言すればいいのかな。ようわからんが。

まあそれはともかく、そこからさらに大乗仏教の誕生へと話は進む。大乗的な発想は、在家信者の中からではなく、いくつかの部派グループの中から多発的に生まれてきたのではないか、というのが著者の見解。そして、在家でも悟りの修行を積むことができ、さらには誰もがブッダになれるという新しい理想が生まれてきたという。「釈迦の仏教」で修行者が到達できるのは阿羅漢まで。そこをこえて「成仏」、ブッダになることへの道まで開いてしまった。

なぜか。一つには、大乗仏教が起こった時代背景があるという。インドを統一したマウリヤ朝が滅び、異民族が流入してきて乱世になる。そこで人々は自分の身を護ることに精一杯で、サンガを養う余裕がなくなってきたのではな……という推測があるらしい。このあたりはまだ研究すべきところらしい。

 

般若経

話は経典に移る。まず、『般若経』。われわれがよくその名を聞く『般若心経』は、『般若経』のエッセンスをコンパクトにまとめたものという。禅宗系、密教系でよくとなえられ、浄土真宗日蓮宗法華宗はとなえない。誕生は古く、西暦の紀元前後とされる。

メーンとなる部分は「すべての人は過去においてすでにブッダと会っていて、誓いを立てている」。すなわち、われわれはすでに誓いを立てているのだから、菩薩だ、ということになる。そして、もう菩薩なのだから、日常生活の中で善い行いを積み重ねれば、悟りへのエネルギーへとなり、やがてブッダになれる、という考え。

……は、「釈迦の仏教」とは矛盾が出てくる。「釈迦の仏教」では善行も「業」であって、その「業」を断ち切るところにある。

だからお釈迦様は、じつは「輪廻を断ち切り涅槃を目指すには、この世では善いことも悪いこともしてはならない」というのです。業を作るような、自意識に根ざした行動をとるな、ということです。善いことも悪いこともせずに、ひたすら瞑想修行に励んで業のパワーを消して輪廻をとめること。それこそが「釈迦の仏教」の本質というわけです。

「わたしはきわめて単純な道徳、誰にも悪いことも善いこともしないという道徳を守っている」と書いたのはポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアだが、ペソアは仏教の影響を受けたのだろうか……というのは置いといて、そういうことだ。つまり、矛盾が生じている。じゃあどうする。そこで「空」を持っていた。「空」は「釈迦の仏教」にもあったが、『般若経』の説く「空」はべつものという。

実体というものが存在せず、構成要素のみが実在する(諸法無我)、というところまでは同じ。だがお釈迦様が存在するとした「五蘊」などの構成要素も「実在しない」、そしてそれゆえに「すべてのものはうつりゆく」という諸行無常も否定する。これでは要素と要素を結んでいた「因果」も存在しないことになり、この世のありようは説明できない。

そこで「空」。

そこで『般若経』では、「この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則に酔って動いている」と、とらえました。この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが『般若経』でいう「空」なのです。

さらに、『般若経』はお経そのものをブッダ法身とした。そして、次のような仕組みを内包しているという。

青年 写経という行為は、『般若経』をより広める目的で、のちの時代に誰かが考案したものなのですか?

講師 これが興味深いところなのですが、『般若経』には、そういうことがあらかじめ書かれているのです。「『般若経』をとなえなさい、書きなさい、広めなさい」という自己増殖のためのプログラムのようなものが、お経に最初から仕込まれている。だからこそ、どんどんお経がコピーされて広まっていくことになったのです。今も書店に「『般若心経』・写経セット」などと題して、『般若心経』と写経用紙が一緒になったものが多く売られていますが、現代になってもまだ、当時作られた自己増殖プログラムが機能しているというのは驚くべきことだと思います。

こうして、『般若経』は今日にいたるまで増殖し続けてきた。でも、「空」という超越的な力とはなんだろうか。著者は『般若経』それ自体が「呪文(マントラ)」であるという。それゆえに、出家修行という高いハードルを要する「釈迦の仏教」では救いきれない人々を救うものになった、そのための神秘性であり、存在意義がある、という。

 

法華経

「南妙法蓮華経」の『法華経』。『法華経』は『般若経』にモデルチェンジを加えた、進化版だという。日蓮宗法華宗系のほか、天台宗融通念仏宗でも重要経典とされている。

法華経』は「諸経の王」と呼ばれる、らしい。なぜか。インドから北方シルクロードが開通するまで時間があった。そして、一気に中国に仏教が流れ込む。「釈迦の仏教」も大乗仏教もだ。そして、その混乱の中で、より新しいものである大乗仏教が重視されるようになる。なぜならば、新しい教えは過去の教えを下に見るように説かれているから。そして、「誰でも仏になれる」という教えを強調した『法華経』が最上位に見られるようになる。

その流れは朝鮮半島を通り、日本にたどり着く。たどり着いて、比叡山延暦寺でも仏教の教えを統合するものとして『法華経』を位置づけた。比叡山日蓮法然親鸞栄西道元らが修行した場所でもある。そのまま『法華経』を取り入れたにしたではないにせよ、基本として叩き込まれたものである。ゆえに、日本の仏教のベースになった経典ともいえる。

して、『法華経』が『般若経』に付け加えた一番の機能はなにか。「一仏乗」だという。「すべての人々は平等にブッダになることが可能である(衆生成仏)」。ただ、これ自体は『般若経』にも説かれていたこと。

だが、『般若経』では三つの修行方法(三乗)を説いていた。「声聞乗」(出家修行の道)、「独覚乗」(一人で修行)、「菩薩乗」(自らを菩薩と認識して日常で善業を積む)。『般若経』では「菩薩乗」を第一としていた。

それをひっくり返して、というか、ひとまとめにしたのが「一仏乗」という。ただ、『般若経』の「菩薩乗」と「一仏乗」が同じものであるかどうかというのは議論の余地があるそうだ。

でもって、発明したのが「初転法輪」の書き換え。梵天勧請ののち、最初の説教をする。が、『法華経』では舎利佛(シャーリプトラ)との会話の中で「最初の説教は方便であって、本当の真理は別のところにある」と切り出し、「今まで私は君たちに阿羅漢を目指しなさいといって、ブッダになれるとは言ってこなかった。しかし、実際にはすでに過去において君たちはブッダと出会っていて、菩薩になっているのだ」という。

いずれにしても、前に存在していた「釈迦の仏教」や『般若経』を無化して、一段上の教えを示すためには、そうやって話を作り変える必要があったわけです。「方便品」には「一仏乗を信じない者は地獄に堕ちる」とまで書かれていますが、こうしたくだりを見ても、『法華経』が「なんとしてでも前に存在したお経を超えなくてはならない」という強い意図をもって作られたものであることがわかってきます。

 このように、オリジナルの教えを再解釈し、上乗せしていくのは『法華経』に限らず、大乗仏教の経典によく見られる手法という。また、法華経では「法華七喩」というたとえ話が盛り込まれていて、より人々にわかりやすく伝わる工夫がなされているというし、さらには現世利益まで盛り込まれている。

そんな『法華経』の特徴として、布教活動が熱心な……感じがあるよね、と。しかしそれも、「迫害を受けていることが、『法華経』の正しさの証拠だ」というのがプログラムされているという。日蓮の法難エピソードもそれにあたるわけだ。

そしてさらに、『法華経』には「久遠実成」という教えが示されている。「お釈迦様は永遠の過去から悟りを開いたブッダとして存在していて、実は死んでおらず、私たちのまわりに常に存在している」。なんだそれは、汎神論か。ともかく、それにより、常にブッダがこの世界にいるとすれば、いつでもブッダを供養することができ、成仏へのスピードもアップするというもの。

……というようなところで、「大乗仏教非仏説論」を説いた富永仲基という江戸時代の学者なんかもいたらしい。

 

浄土教

さて、今度は「南無阿弥陀仏」の浄土教

浄土教とは、一言で言えば「阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土へと往生する」ことを説く教えのことです。阿弥陀様のパワーを信じることが基本となるため「阿弥陀信仰」とも呼ばれています。

末法思想と荒廃する社会、そういうものを背景に、法然親鸞らが説いていった。庶民に爆発的に広まり、現代でも浄土真宗の信者数がもっとも多い。

般若経』や『法華経』は「釈迦の仏教」からするとかなりスピーディになったが、結局は「お経をとなえる」必要があった。が、浄土教となると、それすらもカットして「南無阿弥陀仏」と称えればいい。

で、そこに必要な考え方が「パラレルワールド」の概念。前の二つの経典が時間軸を考え、過去生でブッダに出会い……としたのに対して、浄土教ではパラレルワールドを想定した。われわれは多世界の一つを生きていて、べつの世界にはブッダのいる世界、「仏国土」がある。死んですぐに「仏国土」に生まれ変わればすぐに菩薩修行がスタートできる、と。そして、「別のブッダがいる仏国土へも自由に行き来できる装置」が完備された仏国土を極楽浄土とし、その中心に阿弥陀様をおいた。

なぜ阿弥陀様なのか。阿弥陀様は「もしブッダになるための修行を終えたとしても、その私の仏国土が、どこよりも素晴らしいものになるまでは、わたしはブッダになりません」と誓ったからだという。阿弥陀様は、菩薩として修行を始めたそのときから、すべての生き物の成仏を願った、ということだ。

では、浄土教でのお釈迦様の扱いは?

浄土経典の中のお釈迦様は、「君たちは知らないようだが、じつは阿弥陀様という偉いお方がおられる素晴らしい世界があるのだ」ということを弟子に伝える「伝令」の役回りで、直接の信仰にはなっていません。 

そうだったのか。いずれにせよ、大乗仏教の時代には「お釈迦様だけが唯一のブッダ」という考え方が薄れ、阿弥陀如来大日如来薬師如来……と、ブッダは増殖していった。

で、浄土教といえば「他力本願」ということになる。親鸞にいたっては「すでに私たちは極楽に行くことが約束されているのだから、念仏は願うためではなく感謝のために称えるのだ」というところまで行く。こうした浄土教も、ポンと鎌倉時代に生まれたものではなく、古い大乗経典である『阿閦仏国教』を元にしているという。

とはいえ、ずいぶん「釈迦の仏教」から遠いところに来たよな。

青年 本来の趣旨とは違った方向に向かったことは確かですよね。大乗仏教のそもそものゴールは、悟りを開いてブッダになり、みんなを救ってから涅槃に入ることだったはずなのに、それが目的でなくなったとすれば、いったい何を目的とするようになったのですか?

講師 もちろん、最初は「悟り」が目的であったことは間違いありません。しかし、やがてその目的は「救われること」に変わっていきます。ここで言う「救われること」とは、悟りを開いて涅槃に至るのではなく、楽しくきらびやかで不自由のない生活を永遠に続けられるようになることです。『無量寿経』や『阿弥陀経』には「極楽浄土とは、苦しみも悲しみもない世界であり、すべての人々は宝石に飾られた宮殿に住み、究極の楽園生活をおくる」といったことが書かれていたため、人々はその部分ばかりに注目するようになり、いつしか極楽にたどり着くことが最終目的であると考えるようになったのです。

 

華厳経』・密教

奈良の大仏盧舎那仏像、「華厳経」の象徴として造立されたもの。奈良時代には国家仏教として成立していた。

で、『華厳経』はどのような形で「ブッダと出会う」世界観を示していたのか。

華厳経』は次のようなアイデアを考えました。「別の世界にいるブッダが移動できないのなら、ブッダが自らの映像を私たちの世界に送ってくれると考えればよいではないか」と。

宇宙には様々なブッダがいるが、すべては毘盧遮那仏に収束される。各世界のブッダ毘盧遮那仏に接続し、それぞれのブッダは別の世界のブッダに接続し、ネットワークを構築する。このネットはすべて毘盧遮那仏であり、ゆえにブッダがヴァーチャルな映像であったとしても、それはリアルなものである、と。

これすなわち「インドラの網」、「インドラ・ネットワーク」、帝釈天の宮殿の網飾り。……これはおれが仏教のイメージの中で一番好きなものだ。一即多・多即一。永遠の映り込み。われわれを構成する一つ一つの細胞にも、一つ一つの宇宙が存在する。

ただ、『華厳経』には悟りについての方法が説かれておらず、華厳宗も衰退していった。とはいえ、この思想は日本人古来のアニミズムとも通じ合ったものではないかと著者は述べている。なるほど。

で、密教密教大日如来を最重要仏とする。もとはサンスクリット語で「マハーヴァイローチャナ」なので、華厳の毘盧遮那仏と同じ仏様。有名な二つの曼荼羅図も、やはり華厳の影響を受けているという。そんでもって、密教には具体的な修行方法とゴールが示されている。最終目的は「即身成仏」。べつにミイラではない。生きたままに仏の境地に至ること。このあたりは『空海の夢』で読んだりしたかな。

 

インドにおける仏教の衰退

と、最後にこの話題が出てきた。おれが気になって、本を読んだりもしたテーマだ。その本ではカーストを否定するイスラム教と被ったから、みたいなことが書かれていたが……。

著者は、インドにおける仏教衰退の原因は、仏教自体にあるという。大乗仏教化していくことにより、ヒンドゥー教の梵我一如に(ヒンドゥー教仏教徒は違い自我、アートマンを永遠不変のものと考え、そこが無我の仏教とは違うのだが)近づき、被ってしまった。

講師 ……『華厳経』とほぼ同じ時代に作られた大乗『涅槃経』では、よりヒンドゥー教に近づいていきます。この経典に登場するのが「如来蔵思想」で、すなわち、「もともとも私たちの内部にブッダは存在していて、私とブッダは常に一体である」という世界観です。『華厳経』が「ブッダの世界の中に私は存在している」と考えたのに対し、大乗『涅槃経』ではついに「ブッダは私の中にいる」と言うことになるのです。

青年 「自己の内部にブッダがいる」ととらえてしまうと、ヒンドゥー教の「梵我一如」と完全に同じになってしまうではないですか。

講師 そうです。「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗仏教アイデンティティを失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んで行ったのです。歴史の教科書などには書かれていませんが、インド仏教衰退の理由は仏教そのものにあったというわけです。

うーむ、この推論のほうが面白い。

 

おわりに

で、あとは禅宗の話とか、鈴木大拙の話とかあったけど、時間切れなのでここまで。最後に、著者の「おわりに」から。

仏教は長い歴史の中で、他の宗教には見られない極端な多様性を持つようになりました。独自性を失った芯のない宗教になっていったと見ることもできますが、別の見方をすれば、どのような状況にある人に対しても、なんらかの救済法を提示できる、万能性のある宗教になったとも言えます。宗教の存在価値が、私たちを生きる苦しみから救い出すことにあるなら、多様な顔を持つ大乗仏教もまた、その真理のエッセンスを取り出すことでいくらでも効能を発揮することができるはずです。

 

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