- 作者: 山折哲雄,アルボムッレスマナサーラ,Alubomulle Sumanasara
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2007/06/01
- メディア: 単行本
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さて、ここのところの仏教本ブームで知った「テーラワーダ仏教」の長老のお出ましだ。ちなみに、「テーラワーダ」は「上座部仏教」の直訳みたいなものだ。すなわち、インドから中国、朝鮮半島を経て「戒律なしの大乗仏教」だけが入ってきた日本に、初めて「南伝」の上座部仏教が入ってきたということだ。
「仏教には大乗仏教と上座部仏教があり、上座部仏教はかつて小乗仏教と呼ばれていましたが、大乗仏教からの蔑称なので今では使いません」的なことは中学か高校の世界史で習うことだろう。ともかく、その上座部仏教が「日本テーラワーダ仏教協会」として日本に進出していたのである。まったく知らなかったよ。そして、アルボムッレ・スマナサーラ(正直「アルボムッレ」が覚えにくいのです)師がたくさんの本を出版して(なんか今どきの自己啓発本みたいなやつもあるけど)るなんてことも知らなかったわけですよ。
というわけで、二千五百年かどうか知らんけど、ともかく満を持して日本に進出(という言葉が合っているのかわからない)した上座部仏教。日本仏教の中ですら宗派がたくさんあるというのに、そこんところにはるか昔に分裂した大きな一派が来たのだ。こいつは、コトだ!
が、しかし、当たり前と言ってはなんだけれど、アルボムッレ・スマナサーラ長老に「上座部仏教を広めに来たよ」という意識はない。そこにあるのは、「釈迦の仏教そのものを伝えに来たよ」という意識だ、たぶん。そう、パーリ語経典を信奉し、それこそが釈迦の生の声であるという自負がある、自信がある、確信がある。中国あたりでいろんなものが混入し、さらに日本の泥沼で独自進化した仏教もどき(とは決して言わないが)とは違う、という熾烈さがある。おれが初めてアルボムッレ・スマナサーラ長老の言葉にこの本で接して感じたのはこのようなことである。
言葉、といっても対話である。おれは、知的な営みにおいて対話やら問答というものは、わりと大切なことなのではないかと思う。対談者にとって得るものがあり、また、疑問多き第三者である無知なる自分にとって、その問いを待っていた、答えを待っていた、ということが往々にしてあるからだ。ある賢者の語る直接の文章は尊い。ある賢者の文章にしなかったこと、行動を書き記した随聞記もありがたい。その上で、その賢者なりなんなりについて、己が見解をもってぶつけ合い、教え合う対談やら問答というのは面白い、ということである。ただし、格闘技やプロレスと同じく、マッチメークは重要である。分野が違いすぎてまったく接点がなかったり、ある程度同じ土俵に立っていても、あまりにもテーマについての知識や理解度が違いすぎたり、あるいは両者の信仰の域に入ってしまったりすると、成り立たなくなることもある。
さて、この本の対話の相手は山折哲雄である。宮崎哲弥と呉智英の対談にも名前が出てきた。「山折さんは仏教学者ではなく宗教文化史家ですね」(宮崎)とのことである。おれも山折さんの本は読んだことないのだけれど、なにかこう、民俗学者かと思っていた。ただ、東日本大震災のとき、ボランティア活動した坊主はいたけど、「無常は世の定め」とか「この世は本来地獄ぞ」と説法する僧がいたかと問いかけたらしく、わりとハーコーだ。で、研究者としての初期、鈴木大拙の財団に勤めていたり、先取りになってしまうが、あとがきで「ふと鈴木大拙のありし日のことを思った」とかいって、アメリカで東洋思想、仏教を伝えようとした姿にアルボムッレ・スマナサーラさんの姿が重なるとまで言ってる。迷惑に思われるかもしれないが、と。
というわけで、ちょっと対談の中から気になったところを。ちなみにこの本が出たのは2007年のことで、東日本大震災の前ということになる。日本の社会情勢も変わったよな、とか思う。あと、アルボムッレ・スマナサーラ長老の出身地であるスリランカも内戦がまだ終わっていなかったようだ(とはいえ、この対談の中で語られるのは「内戦」というよりもイスラム教徒の一部テロみたいな表現であって、あとからWikipedia読んで「けっこう大規模にやってたんじゃん」とか思った)。
そのスリランカ。
我々スリランカ人がいくらか安全に生きているのは、ブッダの教えははじめから「生き方」を教えてくれているからです。いくらなんでも親を殺すということはないんです。スリランカでも殺人はあります。喧嘩したり強盗に入ったりして人を殺すということはありますが、自分の子供を親が殺すなんてことはまったくありません。
まったく些事で、無視していいことなのだろうけど「まったくありません」って断言しちゃうの、みたいな。凡夫が重箱の隅をつつくわけですが。本書を読んで、なんというか、よくいえば実直で迷いがない、悪くいえばやや強い言葉を使う人だな、という印象を抱いた。
人間は弱いため、厳しく極限的に言う必要があり、それを計算して書いており、言葉が荒っぽい・乱暴だと指摘されるが、それは全部敢えて意図的に入れており、指摘されても「ほら当たったぞ」という感じであり直そうとは思わず、論理的・知識的に本質を批判できないことを知った上で書いていると述べる
ということらしいけれど。
スマナサーラ 骨がなかったら立てません。だから「背筋を伸ばすことは骨でやりなさい」と言います。腰から上半身を前に落として、背筋を伸ばした状態でそのままあげてみなさいと。そうするとすごく楽で、三時間でもそのままでいられます。私は三時間でも法話をしますが、ずっと背筋を伸ばしたままで疲れません。「あなたがたは疲れるでしょう? それは背筋を曲げているからです」と言うのですが、いくら言ってもできない。私より体格もよいから、簡単にできるはずなのに。これは精神的な問題です。まだまだ人間になっていないんです。だから、なんとなく生まれて、流されて生きている。「私が生きている」という意識がないんです。これは大変ですよ。
骨がなかったら……ってFUJIWARAのギャグじゃあないけれど、さすが「ヴィパッサナー瞑想」を持ってきたあたりだ。そして、おれなどは「なんとなく生まれて流されて生きている」のだから、ぎくりとする。小学生のころよく背筋を丸めてファミコンをやっては、母から「姿勢が悪い」と叱られたものだった。ちなみに今も猫背でキーボード打ってる。只管打坐が必要やね。
と、日本仏教用語が出たところで、日本仏教とテーラワーダ仏教について対決(?)のやりとり。
山折 仏教は合理的な宗教だという説があります。しかし、長い間、少なくとも明治まで、日本では仏教は必ずしも合理的ではないという受け止め方が普通だったと思います。明治になって近代ヨーロッパ思想が入ってきて、仏教も近代ヨーロッパの思想と矛盾するものではない、という議論がしだいにされるようになった。仏教の体系はきわめて合理的、論理的にできているということを主張してきたんです。もちろん、仏教にはそういう側面もあります。しかし、それだけだと仏教が何千年も歴史を貫いて人々のこころを掴んできた力にはならなかったと思いますね。
スマナサーラ いえ、それだから無知なのだと思いますよ。テーラワーダ仏教はなんの変化もなく生き続けていて、仏教の歴史はスリランカにしても日本にしてもほぼ同じですが、北伝として伝わった大乗仏教は毎日毎日新しい形に変化しながらやっと生き延びていて、そちらには合理性が消えている。純粋に合理的に論理で生きてきたテーラワーダ仏教には変化する必要がなかった。
山折 そうかもしれない。しかし、大乗仏教という形で日本列島に今日まで生き続けているのは、そういう合理的でない部分が付け加わったからこそだと私は思っています。
スマナサーラ それは、感情と文化、芸術、美の世界のつながりですから。
山折 日本の仏教は、美意識とか神道とか自然環境とかいろいろなものと結びついて発展してきた。そういう要素は、必ずしも論理とか合理だけでは説明がつかない場合が非常に多い。
スマナサーラ そういう要素があっても、それが仏教ではないと、我々ははっきりしています。
山折 私は基本的に、人間は合理とか理性だけでは解決できない悩みや煩悩をもっていると思っています。だからそれを超えていくために論理の力だけではだめですよという認識が、そもそも仏教にはあったと思います。そこのところですね。考え方が違うとすれば。
明治時代に、というのは西洋の一神教、というかキリスト教に対して仏教は、というところで「浄土真宗の阿弥陀信仰が似てるんじゃ」みたいな話になったとか、そんな話もあったっけな。
でもって、ここんところにテーラワーダ仏教の強い自負がある。原理主義といってもいいかもしれない。べつの本でもスマナサーラ師は「仏教は心の科学だ」と言ってるし、その論理性、合理性、科学性に疑いがない。一方で、山折さんは鈴木大拙の「日本的霊性」のような、日本ならではの要素を肯定する。そして、論理で割り切れない……「残余」といっていいかわからぬが、そういうところを述べる。
さあ、どっちだ。正直、わからんね。より純粋でハードコアなのはスマナサーラさんの言い分だろう。そして、おそらく釈迦の仏教(原始仏教)にアクセスし、学んだ人にとっても自明のこと、となろうか。とはいえ、とはいえ日本には日本の風土があり、そこに培われた文化があり、人情がある。それが謹厳な上座部仏教からみてだらしなく、くだらなく、暗く、無知であろうとも、「でも、日本には日本の」と言いたいところもある。果たして、初期仏教の新しい研究者たちが、その後の北伝大乗仏教日本版をどう見ているのか、気になるところではある。
とはいえ、テーラワーダ仏教にも論理の果てはあるようだ。
スマナサーラ そうです。お釈迦様は、「涅槃には論理は成り立たない」と言っています。
論理から入って、論理の成り立たないところに抜ける、とでも言うのかね。このあたりでやはり「筏のたとえ」が出てきたりする。いずれにせよ、「修行しないと通じない世界」であるらしい。
あとはなんだろうね、最近読んだところでは、佐々木閑先生がこんなことを言ってた。
マンダラと量子宇宙だの、つき合わせてみても意味がない 『真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話』を読む - 関内関外日記
大栗 一神教では、神様が人間に生きる目的を与えてくれます。「神から役割が与えられているから、生きることには意味がある」と考えることができるのです。仏教は、人間には本来、生きる意味が与えられていると言いますか?
佐々木 言いません。
一方でスマナサーラさんは。
山折 そのための人生モデルをこれからの仏教がどう提供できるか、ということでしょうね。
スマナサーラ そうですね。それは私の仏教では答えを出しています。あなたはみんなの役に立つように生きてみなさいと。そうするとあなたに生きる価値が出てきます。なぜ私が生きていなければならなかといえば、「私が生きているとみんなの役に立っているのだ」と思えるのならば、人生は苦しいとか、なぜこんなことをするのか、という暇がないんです。自分が生きていることで人が助かっているんだから、必死で生きていかないといけない。そうやって自分にポジティブになる生き方、周りにポジティブになる生き方を選びなさいということです。
なにやら食い違いが出てきたな。これは佐々木先生とスマナサーラ先生で見解が違うのか、おれの知識がなく、なにかこうおれがまったく違うものを並べてしまっているだけなのか。ただ、日本仏教に戒律(律)がない、というのは佐々木先生もスマナサーラ先生も見解は一致するところであろう。
スマナサーラ ……私は現代人に語りますから、いきなり「殺生するなかれ」と言います。説明してくれと言われたら、殺生というのは生き物を殺すことだ、それはだめなのだ、と答えます。在家の人々は措いておいて、我々出家の場合には、植物を損なってもいけないんです。初期仏教では、いわゆる、感覚をもっている存在が生命なのです。植物も生命みたいなものですが、感覚をもっているかどうかということはわからない。しかし、「殺さないということは、アメーバさえ殺さないということだよ、覚えておきなさい」と、教えるときはそう言います。次に反論が来るんですね。「そんなことを言っても結構殺して生きているんじゃないか」と。そこなんですね、問題は。「そうです。あなたが生きること自体が罪なんですよ。だからお釈迦様は、生きることから解脱しなさいとおっしゃっているんです。輪廻に執着してはいけない」とはっきり言うんです。
「憎むな、殺すな、赦しましょう」とは月光仮面だが、このあたりは正直よくわからん。「生きること自体が罪」と言い切る。これは原罪とでもいうべきものだろうか。そして、それが罪であるならば、「疾く死なばや」(一言芳談)ということにはならんのだろうか。それで浄土に行こうと。でも、浄土思想はこっちのものだ。そのわりには「阿闍世王が地獄に行くに決まってる」と言ったりもする。あと、不殺を極めるなら、ジャイナ教のいちばん強烈なアヒンサーにならう必要があるのか。でも、そうでもないらしい。今のおれにはわからん。 わからんからメモして放っておくことにする。今日はここまで。
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