神道に思想はあるのか?(勉強したい)

こんな本を読んだ。

 

 

おれが何冊も本を読んだ禅僧、南直哉。永平寺で長い事修行した上で、恐山(曹洞宗のテリトリーなのだ)に行った人やのや。そんでな、対談相手の鎌田東二という人は、字面しか見たことがない人やったのやけど、こないだ亡くなってな、亡くなって新聞の一般紙に取り上げられる人で、京都大学の名誉教授ならばそれなりに信用できる人だろうと思ったやでな。

 

そんで、おれは、あれだ、表題どおりに、神道というものは宗教なのだろうか? 教義はあるのだろうか? 思想はあるのだろうか? と、思ってきていてな。折口信夫が「戦後の神道は宗教たりえなかった」みたいなことを書いていたのは知っていてな、いったい神道とはなんなのだろうか、ようわからんでな。ようわからんというのは、あれだ、べつに神社に行けば神様がまつられていて、それを拝むみたいな、そういう信仰みたいなものはあるけれど、じゃあそれっていったいなんなんだろうか、ぜんぜんわからんでな。毎年、初詣に何度も行って、お守り買って、おみくじ引いてるけど、そこがわからんでな。

 

でな、あまり、思想、哲学、教義とかいうと、主知主義というか、そこに陥ってしまって、宗教とはかけ離れるかもしれんと思えてしまうやでな。でもな、神道とか神社には、あまりにも思想が感じられない、教義が感じられないと思っていてな。そこで、この本の鎌田東二の発言から、ちょっとだけ神道の思想みたいなものが見えたというか、あるんか、みたいに思うてな。

 

 

南 そこで一つ伺いますが、神道は、新たな今後の物語を生み出すことに、材料や方法を含めて有効であり続けるのか、あるいは有効なものに仕立て直すというか、変わっていけるのでしょうか。

鎌田 仏教も神道も、ともに可能性を持っていると私は思っています。(……)神道は、世界中の先住民の文化と同様に、自然を畏怖する心、存在に対する畏怖、「畏れかかしこむ」という感覚を純粋に保っている営みの一つです。それはまた、謙虚な心と態度にもつながっていきます。

 

 現在われわれが本当に必要としているものの一つに「謙虚」というものがあると思います。謙虚とは、人間の小ささを知るということなんですよ。でも、人間の小ささを知るためには、命の全体像の中にわれわれの命があるというマッピングがきちんとなされなければならない。神道はそういうことが核となって伝わってきたものだと思います。それはまた、生命認識です。この生命認識という点で、神道はまだ可能性を持っていると私は考えています。

「畏れかしこむ」か。自然に対してそういう態度をとる。そういうところがあるのか。あるのか、といっても、神道というもの、あるいは八百万の神に対する日本人の素朴なアニミズムみたいなものはあるように思っていた。それはそれでいいのか。

 

南 私なりに理解すると、神道が語る自然には、根本的な「わからなさ」がどこかにあるわけですね。

 

鎌田 もちろんです。それが根底にあります。それを神道では「むすび」と言います。それを仏教的に「無常」と言ってもいい。ポジティブに言えば、「産霊」。ネガティブにというか、メタ認識的に言えば、「諸行無常」。どちらも生成変化を意味している。

 

(……)

 

鎌田 私は最近、「無常」と「むすび」は、どうも違うことを言っているようには思えないんですよね。

 

南 「むすび」というのは、いわゆる魂みたいな意味で言うのでしょうか。

 

鎌田 「むすび」は、最も古くは『古事記』の中に出てきます。「むすひ」ですね。「天天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は並独神と成り坐して、身を隠したまひき。」

 

南 『古事記』の冒頭の部分ですよね。

 

鎌田 そうです。この冒頭の部分に「むすひのかみ」は二回続けて出てきます。「身を隠したまひき」ということも含めてですが、「ひとり神に成りまして、身を隠したまひき」の部分、ここは繰り返し考えるところです。

正直、記紀は神話というか物語だと思っていたので、「むすひ」について考えるという発想はなかった。そして、それは仏教の無常と同じようなものだという。これが神道のスタンダードな考え方かどうかはわからないが、鎌田東二の経歴からすると、あながち異端ではないのかもしれない。そのあたりはわからない。

 

鎌田 この「むすひ」とは、生前が持っている生成の力を指しています。西洋の哲学者のヤコブ・ベーメやスピノザなどが、「生成する自然」と「作られた自然」というような分け方をしますが、「生成する自然」の持っている一番の根源にある働きが「むすひ」です。これは、何かを結ぶという意味ではなく、生成するという意味です。

 

南 なるほど。マルクスは「人間の本質は社会的諸関係の総体だ」と「フォイエルバッハにかんするテーゼ」(1845)の中で言っていますが、あらゆることが縁起として起こるならば、われわれの存在は縁の結節点みたいなものでしょう。「むすひ」の理解も、関係性からものごとをが生起するというような意味に近いですよね。

 

鎌田 そうです。だからそれを無常と同じだというように考えることもできるのではないかと。

 

(……)

 

鎌田 わけのわからない何かのはたらきの中にかたちが生まれてくる。隠れているものが、顕在化してくる。それが「むすひ」です。顕在化したところでは、はっきりと現実化していくものがあるわけですね。

 

南 それは仮象ですよね。

 

鎌田 背後にあるものは、よくわからない。そのよくわからないものに対しては、畏怖、畏敬の念を持つ。畏れかしこむ。こういう力があるから結ばれる。

 でも、「むすひ」というときにはポジティブなかたちのところに着眼点が置かれていますが、「無常」という場合には壊れているところに着眼点が置かれています。そこは、同じことを裏から見るか表から見るかという違いがあるだけではないかと思います。

 

南 そうすると、「むすひ」というのは非常に縁起に近いですよね。

 

鎌田 私の考えではそうです。その縁起する力をダイナミックにポジティブに理解したのが「むすひ」です。そして、そのとらわれから抜けていくための一つの機縁として構造的に理解したのが仏教だと思います。神道はそれを力動的に、はたらき的に捉えた。

「無常」かと思えば「縁起」でもあるという。マルクスが「縁起」論者だったかどうか知らないが、神道にもそういうところがあるのか。ようわからん。

 

 

南 自然(しぜん)というのも、もともと自然(じねん)と言い、むしろ仏教語に近いです。そうすると、神道の言葉でこの自然に近いのは何になるんでしょうか。

 

鎌田 いま話してきた「むすひ」ですね。つまり自然は生成ということに近いでしょうね。だから、それには「むすひ」という言葉しか該当しないように思います。

 

南 普通の日本人が特定の信仰によらず、よく「自然に帰る」という言い方をしますよね。これは日本人だったら、かなりリアルな感覚がまだあると思うんですよ。

 

鎌田 ありますね。

 

南 そうすると今後、神道が新たな物語を作るときに、その物語の骨格になるのも、死、あるいは生と死が自然から結ばれてくるということ、または死とは自然に戻って帰っていくこと、といったことになるのでしょうか。

 

鎌田 一番核心となることは、そうですね。また、「自然とは何か」という、いわば自然哲学がやってきたことの現代的な語り直しが必要です。

 

鎌田 自然と環境はイコールではない。では、その自然とは何なのか。それを明らかにする自然の存在論が必要なんですよ。

 

南 それがまだないですよね。

 

鎌田 明確には、まだないですね。

 

南 ですから、環境と自然は違うという話から「結び」ということが出てきましたが、これらを改めて定義しないと、次の語り口としてはなかなかリアルになっていかないのではないでしょうか。

 

それでもって、「むすび」だか「むすひ」だかは「自然」にも通じるという。そりゃああまりにも何にでも通じているように思ってしまうが、そのくら自然なのが神道なのかもしれない。「自然に帰る」が日本的だなというのはそう思う(べつに外国で同じ感性があってもおかしくはないので、「日本独自」とは言わない)。そのあたりが、神道なのか? 神道の思想なのか? よくわからない

 

国家神道というものが明治よりあとにあって、それはそれで政治団体のようなものだろうが、では、明治より前の神道とはどうであったのか。天皇とは何であるのか。神話と信仰、その関係はなんなのか。

 

よくわからないなりに、神道のことについて学んでおきたい、学ぶというと言い過ぎなので、何冊か本を読みたい。「神道に思想はあるのか?」というのは、べつに反語を呼ぶものではなく、単純な疑問である。おれは次に以下の本を読んでみたいと思う。「もっと読むべきやつがあるだろう」というなら、それを教えてほしい。