玄侑宗久『荘子と遊ぶ 禅的思想の源流へ』を読む

 

荘子と遊ぶ (ちくま文庫)

荘子と遊ぶ (ちくま文庫)

 

日本に入ってきた仏教は、中国起源の思想を大いに取り入れたものである。と、いうことはいろいろな書物で知っていた。原始仏教に近いテーラワーダ仏教が、「われらこそが釈尊の本流」と言うことも知っている。宗教というものは広まるにつれてシンクレティズムが避けられないものだ。あるいは、時が経つに連れて変化していくこともある。そのたびに、「今一度始祖に立ち返ろう」と原理主義のようなものが立ち上がるのも常である。

して、鈴木大拙などが言うように、日本には中国経由の仏教を受け入れる土壌があったからこそ、受け入れたのである、というような論におれは納得するところがある。鈴木大拙の仏教理解も、原典に当たる佐々木閑などからすれば八割誤りで、新たな一宗派だと書かれていたが、だからなんだ、というところだ。

ある始祖があって、それが他文化と衝突し、受容され、変容する。時代の経過とともに変化する。それ自体が悪いことだろうか? 本来の思想や信仰からかけ離れてしまった、ということもできる。一方で、より厚みが増し、思想が展開したとも言えるのではないだろうか。各人、それぞれの信仰によって信じるところを見つければよい。

して、日本に入ってきた仏教はおおよそ中国経由である。インドで生まれ、中国を経て、日本に渡ってきた。そして、空海法然親鸞道元、一遍、盤珪などによって、日本オリジナルの境地に変容したといってもいい。そこには、立場はそれぞれだろうが、いいところも悪いところもあるだろう。とはいえ、石川九楊が「われわれの日本語は中国で生まれた」というようなことを言い切っていたように、オリジナルなんてあってないようなものだ。人類そもそもアフリカ出身なのだ。日本人が「日本的」と思うところの根底にインドの釈尊が言ったこともあるだろうし、中国で付け足されたものもあるだろう。もちろん、宗教という形になっているかどうか折口信夫に文句を言われるかもしれないが、神道的な思想もある。それがないまぜになって、日本人の感じ方のベースがあるように思える。

と、話はタイトルに戻すが、老荘思想というのは仏教の中国経由で相当な影響があったところである。それこそ、仏教者であるところの著者が「禅的思想の源流」とまで言ってしまうほどに。

でもって、おれは荘子を知らぬ。荘子どころか、老荘思想と言われても、老子荘子の違いもよくわからぬ。この本は、そんなおれに「荘子ってこんな人よ」っていうところを教えてくれるものであった。そして、仏教抜きで『荘子』というものに興味を抱かせた。

 江戸時代の沢庵禅師はその最期に臨み、弟子たちに揮毫をせがまれて「夢」と大書したと伝えられるが、これは紛れもなく荘周直伝の「夢」である。

 むろんそれは、「今」を軽く見るということではない。どんな「今」も、やがては変化して「夢」のように思い返されるだろうが、ともかく「今」はその現実の「志に適う」よう、なりきって楽しむしかない。あとは変化に身を任せるという覚悟なのである。

 禅では一生のことを「大夢」とも呼ぶから、「大夢俄に還る」というのは死への移行のことだ。しかしそんな大きな変化ばかりでなく、人生における大小さまざまな苦しい時間にも、それが必ず「夢」に思えるほど変化すると確信できるなら、苦しい「今」に向き合う勇気も湧き出るだろう。

Everything Will Flow。


Suede - Everything Will Flow

天道は運りて積む所なし、故に万物成る。

諸行無常に通じるものがここにあるという。たしかにそうとしか思えない。成心、固定観念のようなものがあってはつまらない。

其れ成心に随いてこれを師とすれば、誰か独り旦た師なからん。

そういうことだ。

紹介されている『荘子』の「小説」も面白い。巨大なクヌギは、役に立たなかったからこそ伐られることなくご神木になった。建材にもならず、実がなるわけでもなく……。無用だったからこそ、大きくなった。無用が大用に転じる。

 いろは歌には「有為の奥山けふ越えて」と歌われるが、その行く先は、死だけではなく本来は「有為」の反対の「無為」の世界である。経典中の「仏」が当初「無為」と訳されたのも、「解脱」のイメージが「無為自然」に重なったからだ。

そして、その「無為」は禅の不立文字と同じく、語られないものだという。

 老子荘子に共通して云えるのは、実相と表現とのどうしようもない齟齬の認識、何よりこの言葉という道具への不信ではないだろうか。

「言は弁ずれば而ち及ばず」、これである。

このあたり面白いので、おれは『荘子』を読んでみようかという気にもなった(無論、現代語訳だろうが)。それもこれも、著者が荘周さん(荘子)と遊んでくれたからである。「ちくまの連載が終わってしまいます」とか話したりする。そう、本書には荘周さんが出てくるし、混沌王子と犬と猫と著者が接し、だらだら遊んだりする。『聖☆おにいさん』みたいな感じだと言ってもいい。最初はなんか違和感があったりもしたが、読みすすめるにつれ、これはこれでいいかな、とか思った。

が、一つだけ気になる点があった。荘周のセリフである。

「それポン、上がりやな。メンタンピン、ドラドラ、安いけどな」

ポンで上がることはないし、ポンで面前ということもない。そしてメンタンピン、ドラドラが安いとも思えない。ロン、だろうか。このあたり、校閲が見逃してしまったのか。まあ、どうでもいいことである。以上。

 

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