信心は言葉で表せるのか? 高村薫・南直哉『生死の覚悟』を読む

 

生死の覚悟 (新潮新書)

生死の覚悟 (新潮新書)

 

高村薫とおれ、おれと高村薫。若いころ、高村薫の小説に打ちのめされていた。とくに衝撃だったのは小説『レディ・ジョーカー』での競馬場シーン(たしかアジュディケーターが走っていたと思う)だった。

おれは、「ひょっとして高村薫競馬ファンなのでは?」とすら思うほど、見事な描写だった。そう思った。思ったが、ただ一度競馬場に取材に行っただけだとどこかで読んで仰天した。それが小説家の目の凄みか、と。

その高村薫と、このところよく読んでいる南直哉の対談本である。おれは高村薫の近年、といってもずいぶん経つと思うが、思想小説的なところに行ってからは(『晴子情歌』からか?)ご無沙汰している。ちょっと手にとってもみても、「難しい!」と放ってしまっていた。しかし、いくらか仏教関連の本を読んだ今ならば……という思いもする。

して、南直哉が、おれにとっての競馬場について感じたのと同じような感想を述べているのでおかしくなってしまった。

 ……要は、それだけあの小説がリアリティに満ちていた、ということです。永平寺山内の描写、修行僧の生態や言動、『正法眼蔵』の解釈、いずれも生兵法では書けないレベルにあり、そのような疑惑(引用者注:高村薫が南直哉を作中モデルのしたのではないかという疑惑)が生じるのは、ある意味当然でしょう。そこで、「疑惑」をここで晴らすためにもおうかがいしたい。この小説を書くにあたって、どなたか曹洞宗の人間を取材されたのですか?

これに対する高村薫の答えがこれである。

高村 いいえ。取材はしておりません。それが私のスタンスでもあります。

 本当に自分の書きたいことを書くためには、相手に迷惑をかけないよう、直接取材というものをしていないというのだ。高村薫の精密な警察小説などを読むに、これは恐るべきことだ。いやはや。

 ……と、メーンテーマは高村薫の凄さではなかった(あと、同じく農業の描写がすごい→取材、実体験はしておりません、というやりとりもある)。生死の話である。とはいえ、この本、いくつかの対談と、それぞれの著作に対する書評から構成されており、タイトルにある「生死」について絞って語っているわけではなかった。むしろ、信心というものについて多く語られており、非常におもしろかった。ある意味で、信じるものと、信じないものの対話でもある。

南直哉は幼いころより死について尽きぬ興味を持つ人間であった。そういう人間が仏教に賭けた。

 ……出家するときに一番戸惑ったのは、戒律を受けにゃならんことです。特に不殺傷戒。これは自殺の禁止でもあります。それまでは、いよいよ窮まったら死んでいいと思って生きてきました。それは一撃必殺のジョーカー。しかし、「諸行無常」という言葉に出会って、死ぬ前に仏教をやってみようと出家した。ところが戒律を受けた以上、自殺はできない。つまり博打というのは、自殺しても構わないと思っていた人間が、生きる方に賭けたということです。

この「賭けた」という行為に、おれは「信心」というものに踏み込んだなにかを感じるのだが、どうだろうか。

その南が考える仏教について、次のようなことを言う。オウム真理教事件をめぐる話についてだ。

高村 ……これはいろいろ読んで調べた上での私の実感でもあります。オウムが宗教ではないとは必ずしも言い切れない。しかし少なくとも、帰依するに足る宗教ではないと私は思いました。

 

 「あれが仏教ではない」と言い難く思うのは、密教があるからです。密教をどう位置づけるかというのは、仏教の中でも非常に難しい。しかし私にとって仏教の核心にあるのは、無常と無我と縁起。その立場からすれば、あれはダメです。

ん? 「あれ」ってなんだ。おれは「あれ」が密教真言宗天台宗チベット仏教)などを指すと思って、思い切ったことを言うのだなと思ったのだ。が、あらためて打ち込んでみると、「あれ」って「オウム真理教」のことか。これに先立って述べている。

 ただ私は、オウムについて「あそこがおかしい。そこが違う」ということを事件の前にきちんと指摘できなかった、言い遅れてしまったことを今でも強く後悔しています。

やっぱオウムのことか。

それはそうとして、「信心」について。

高村 曹洞宗の教義がわかりにくいとおっしゃいましたが、むしろ私のように少しものを考える人間は、前提に信心や帰依がなければいけないとなった瞬間に、もうダメです。そこで仏教への入り口がもう閉ざされてしまう。こちらが閉ざしてしまうのですが。

 

 そこでは考えることが問われませんからね。

 

高村 入り口が信心や帰依だとしたら、最初から手が届きません。そうではなく、信心や帰依する対象は何なのか、それが知りたいのです。知らなくてもいい。まず信じなさい。お念仏しなさい。座禅しなさい――。それを近代理性で毒された私のような頭は、受け入れることができません。信心とは、ものすごくハードルが高いことなのです。

このあたりが高村薫の真骨頂という感じもするが、一方で、高村薫ほどものを考えられない人間(おおよその人間がそうだろうが)でも、やはり信心を持つということは難しい。大なり小なり近代理性に毒されているところがある。この社会では、妙好人のような人間は生まれがたいし、生まれたところで誰にも相手にされないだろう(妙好人はだれに相手されようというわけもないだろうが)。

この「信心」、「信」をめぐる部分については、とても興味深い。なにせ、おれ自身とてほかの宗教より抜きん出て仏教というものに興味を持ちながら、そこに信心や帰依の心があるかと問われれば、「ある」とは言い難いからだ。ほかならぬ釈尊に帰依します、大日如来を崇めます、南無阿弥陀仏と唱えます……どれも本心から出てくることはない。どこかのお寺に行って、仏像に手を合わせたところで、何に対して何を祈っているのか、そこの根拠がない。

そこで、曹洞宗であればまず座禅しなさい、ということになる。体験から心身脱落に至る仕組みが用意されている。念仏を唱えるというのも似ているかもしれない。ときには踊ったりするかもしれない。しかし、近代理性に毒された人間には、それがむずかしい。もちろん、おれとていきなり禅寺に放り込まれたらなにか変わるかもしれない。しかし、放り込まれることもないし、自らを放り込むことがない。なんらかの具体的な宗派なり寺なりに賭けるきっかけがない。そこが難しい。このあたりは、吉本隆明の『信の構造』なども思い浮かぶ。

南直哉はやはり座禅して自意識の変容というところまでいけるという。言葉でなにか言い切ったところで、全部嘘だという思いもあるという。

おれは信心も、考えもない人間だが、言葉にしてしまうと嘘になるという思いはずっと抱いている。

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何度も書いてきたことと思うが、おれはおれの書いた言葉を信じない。書いた瞬間に嘘になると思っている。おれが呪詛を書き連ねたところで、おれにとってはもうそいつらは嘘にならざるを得ない。他人がどう読もうと知った話じゃない。おれにとっては虚構になる。

悟りからは程遠い。

悟りとはなにか。南直哉はこう書く。

 我々は、「仮の悟り」を理解可能な「まこと」として扱う以外にない。それと別に「第一頭」の「悟り」を得ることはできない。「第二頭」以外の「悟り」は、「無い」のである。

 この際限ない言語運動としての「悟り」はちょうど、「本当の自分」が幻想であり、「仮設された私」を更新しながら生きる以外にない。我々の存在の仕方と相同である。

 「たとへば、昨日のわれをわすれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずとはいはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく参取するなり。しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり」

 昨日と今日の自分を比較して、どちらが本物か、などと言ってもナンセンスだろう。同様に、「而今」、つまり縁起の「さとり」は、それ自体が「本物のさとり」として過去にあったり、今出てきたりするような代物ではない。

 「縁起=空を悟る」ことを「大悟」と呼ぶなら、それは昨日の「悟り」(「黒頭」)を今日は更新(「頭白」)する行為なのであり、『正法眼蔵』自体がまさに、そのよう言語運動を構造として持つのである。

「蔵頭は白、海頭は黒」という禅問答の言葉が思い浮かぶが、関係あるのかどうか。いずれにせよ、我々が得られるとしても仮の悟りであり、永遠の運動の中で悟り続けていくしかない、という。毒された理知によって、なんとなく言ってることはわかるような気になってしまう。大きな罠だろう。

南直哉は『超越と実存』のなかでこう述べている。

『超越と実存』はすばらしい仏教の本だと思う。

 「信じることができない」人間の念仏でも阿弥陀如来の本願による往生は可能だとしても、ではその念仏はどのように実行されるのか。阿弥陀の本願によって、「信じることができない」まま行う念仏とは、実際どういうものなのか。

 それは「信じる」行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏である。真に「他力」によるというなら、「信じる」「念仏する」行為に澱のように残らざるをえない「自力」を、「信じる」行為もろともに捨て去らねばならない。このとき、「信じない」行為も同時に無効になる。

 「信じる」行為は、「誰か」が「何か」を「信じる」という構造でしか発現しない。すると、その脱落は「信じる」主体を放棄し、「信じられる」対象<阿弥陀如来と極楽>を消去するだろう。このとき、念仏はただの音声、意味を理解する必要のない発音の連続になるのだ。

これを読んだ高村薫は、こう述べる。

高村 この本では、そこから道元の有名なフレーズ「身心脱落」話がつながっていますが、そのような呼び込み方、つまり「信じる行為」を消した先に「身心脱落」があるという。それまでは考えも及ばなかったことだったので、思わず「<あ!>と声が出た」というわけです。

おれがこれを読んでいの一番に思い出すのは、妙好人浅原才市の言葉である。「たりきには、じりきもなし、たりきもなし、ただいちめんのたりきなり」。おれはこの心境というものが心身脱落であり、ひとつの悟りの言葉の極地にあると思うのだが、さて、どうだろうか。

 

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……『太陽を曳く馬』は読んでやんの。それで完璧に忘れてやんの。

 

 

妙好人

妙好人

  • 作者:鈴木 大拙
  • 発売日: 1976/03/29
  • メディア: 単行本
 

 この本については「風邪が治ったら書く」とかいって、感想書いてねえの。