フオオオオオオオ! 『死してなお踊れ 一遍上人伝』を読む

 

死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

 あと、これはさいきんの調査でわかったことなのだが、もともと『一遍聖絵』では、一遍は素っ裸だったらしい。真っ黒に日焼けしたおっさんが、テコテコとあるいている。でも、えらいお坊さんにそんなかっこうをさせるのはどうかということで、あとあと阿弥衣をかきこんだらしい。まあじっさいのところ、一遍は裸同然であるいていたんだじゃないだろうか。貧民だ。というかすべてを捨てて、ひとからのほどこしだけで生きていこうとしていたのだから、そりゃあ貧民なのである。一遍は、そこからはじめようとしていた。本人の意識としても、この世で差別され、しいたげられている人たちと、おなじところから出発するんだというところだろう。一遍、いわくだ。どうぞ、どうぞ、お札をどうぞ。札をもらっていいとおもったら、みんなオレについてきやがれ。仏なんか信じなくてもいい。キレイもキタナイも関係ないね。念仏札をまきちらせ、一遍、かっこいい。

というわけで、著者の「一遍、かっこいい。フオオオオオオオ!」という感情によって編まれた一遍上人伝である。著者はアナキストであって、「仏教なら一遍だな」と思ったのだろう。おれもアナキズムにひかれる人間であって、「仏教なら親鸞だな」くらいに思っている人間であって、そのラインに一遍だって存在している。むしろ、おれは親鸞より、盤珪より、一遍が好きなのかもしれない。おれが遊び場にしていた藤沢に、遊行通りがあって、時宗総本山遊行寺があったということも関係しているかもしれない。関係ないかもしれない。そもそも、時宗なんてものができてしまっていることに一遍は納得していないかもしれない。でも、教団なんてものが不本意だとしても、だれかが残さなきゃ、一遍の遊行も伝わってなかったかもしれないしな。

というわけで、おれは『一遍聖絵』を見に行ったりしたこともある。読み返したら、この帰り道に大杉栄の本を買っているのだから、おれとこの著者はどこかしら似ているのだろう。

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一番良かったのは、えーと、第七巻だかの、空也上人の縁の地で踊り念仏をするやつだ。高床式舞台みたいなところで一遍を中心とした時衆がみっちりぐるぐる回りながら踊っていて、そこに向かって大勢の人が群がってきている。輿だか牛車だかも押し寄せている。武士も子供も押し寄せている。なんらかの舞台が出来上がっていて、エアがグルーヴしている。そしておれはこれがもうアニメーションされているように思えて、宮崎駿の手で動いているように思えてきたのだ。わくわくさせられる何かがあった。絵巻のなかではこれが一等で、ちょっと包んでくれないかと言おうと思ったくらいだ(言わなかったが)。

一遍といえば口から南無阿弥陀仏が出ている空也ということになる。一遍は空也のほかに教信も尊敬していたという。教信は親鸞も尊敬していたという。教信は死ぬときに、弟子に「私の死骸は獣に食わせろ」と言い残し、弟子が実行したら(弟子もすげえな)、野犬に「ムホッ、ムホッ」と食われた。が、頭だけがきれいに残っていたという。すごい。

というか、おれは今までも一遍上人についての本はいくらか読んだ。

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そんで、一遍の、「はねろ、はねろ、はねろ、捨てろ、捨てろ、捨てろ、現世でたくわえた富も名声も、仏を信じる心さえも、はねて、はねて、捨ててしまえ」という、捨てててこその思想に触れたつもりではある。

が、肝心の、はねて踊るあたりについて、You Tubeで「踊り念仏」とかを検索すると、おれはなんか落胆するのである。迫力のない盆踊りというか、なんというか、武家屋敷の床を踏み抜いたほどの迫力がないのである。日本で初めての筋交いを設置したほどの躍動がないのである。

フオオオッ、フオオオオオオッと奇声をはっしながら、ブルンブルンと体をゆさぶり、あらあらしくバシバシと地面をけりとばしてとびはねる。なんども、なんども、エンドレスで。無尽蔵のエネルギーを発揮する。もはや、だれにもおさえることなんてできいやしない。というか、ふつうひとはそんなにはねない、必要がないからだ。でも、ひとたびピョンピョンとびはじめると、ひとはもうえちゃくちゃにおどってしまう。

こういう踊り念仏が見当たらない。今の、時宗の人たちというのが、外向きにやさしい盆踊りみたいなのを見せているだけで、内輪の踊り念仏ではフオオオオオオッとなっているのだろうか、どうだろうか、おれにはわからん。わからんが、おれは栗原康の描く踊り念仏に賛成であって、こんぐらい踊りまくったのだろうと信じる。そっちの方がかっこいい。そんぐらいじゃなきゃ、裸同然でテコテコ歩いてきたお坊さんの集団に、人々が熱狂するわけもないし、今の世に伝わることもなかったんじゃねえのかって思うのだ。一遍のヴァイブスに感謝しなきゃいけねえ。

というわけで、おれはこの今の世のどこかに、一遍のヴァイブスが伝わってると思いたい。もしも道を歩いていて出会ったら、おれも踊ろうじゃねえか。そうだ、ギリヤーク尼ヶ崎みたいに、ホアキン・フェニックスのジョーカーみたいに踊ってやろう。フオオオオッ!

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一遍上人も訪れた当麻寺のまつりは割とファンキーだった。