- 作者: 高村薫
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■『レディ・ジョーカー』に競馬場のシーンがあって、アジュディケーターの京成杯だった。その描写たるや見事なもので、しかも競馬場には取材のため一回行っただけだと後で知り、作家というものの底知れ無さを感じたものだった。
■新刊『冷血』の話題を目にした。トルーマン・カポーティの『冷血』ならおれも好物だ。ぜひ読みたい。して、これが合田雄一郎ものだというのだから、「合田もので読んでないものがあれば読んでおこう」という具合で本書を手に取った。本書が『晴子情歌』、『新リア王』とべつのシリーズの三部作の最後だとは、さっき知った。
■合田雄一郎もの、といったが、いったいどういう「もの」だったか。たしか、元義兄といちゃいちゃするようなものだったという記憶はある。そのころ、まだ黎明期のネットを見て、腐女子(たぶん、当時そんな言葉はなかったが)の間で「高村薫は天然だからそっと見守るべきだ」というような書き込みをみて、そういうものかと思ったものだった。おれ『李歐』すごい好きです。
■して『太陽を曳く馬』の話をする。上巻「現代美術編」、下巻「仏教編」といっていい。ただひたすらに会話が繰り広げられる。退屈な人には退屈だろうが、おれには非常にエキサイティングだった。
■ちなみにおれは、本書の死者である末永君と同じ慶應の文学部に一瞬だけ在籍したことがある。末永君は数学が苦手で文学部に入ったらしい。それも一緒だ。3年で心理学専攻に転じたが、やりたいのはラカンだかなにかだかで、ゼミでやっている認知心理学とはしっくりこなかったという。
■パンキョー、土曜の一限、心理学。白衣を着た講師がはじめに曰く「ユングとかフロイトとかの夢判断ごっこがやりたいなら上智か青学にでも行って下さい。ここは完全に理系なので、毎日マウスで実験するようなところです」。なぜそんなものが文学部にあるのかよくわからなかったが、授業の内容も認知心理学というか脳の構造というか、局所麻酔で開頭手術をして、脳に電極を刺した今ではできない実験だとか、そんな映像など見せられた。いろいろと面白い話を聞けた。ただ、心理学専攻はあくまで理系だから算数できねえやつ来るなよという、門前払いの授業という気もした。その授業が終わると、日吉からまだ存在していた東横線の桜木町駅に出て、桜木町場外に行くのが習慣だった。
■まあ、そんなことはどうでもよろしい。おれが引きこもりに転じず、それなりにやれる程度の対人関係を築ける人間であれば、彼のように宗教世界に行っていた可能性があるかといえば、あるとしか言えないだろう。おれは圧倒的に人間嫌いで、他人をはなからひどく見下すか、下から目線で憎悪するかの二通りなので、カルト宗教団体にも伝統宗教団体にも無縁で生きてきた。
■一瞬だけ美美にいた。いくらか芸術には興味がある。好きな芸術家もいる。草間彌生についても作中の手紙の中で触れられていた。
……さういへば學生時代に草間彌生の繪を見たとき、この人は物語ではなく、その原子や分子が整列してゐるのが見えてゐるやうだと思ひましたが、いまや彼女は自分の腦の視覚野に竝んでゐる細胞が見えてゐるやうだ、と言ひなほすべき時代になつたやうです。それにしても、なんと自信に滿ちた腦細胞たち!
「なんと自信に滿ちた」といふところがよいでせう。そしてまた、カンバス一面に單色を塗つたくつたやうな高村流の(?)現代繪畫論など繰り廣げられれば、「ふむふむ」と納得したやうな心持ちにもなるものですが、如何せん私はああいつた繪を見ても壓倒されたやうな心持ちになつたことが無いのです。説明を要する(擁する?)、頭でつかちの藝術といふ偏見でもあるのでせうか、私の細胞に照應するところが無いのです。横尾忠則に言はせれば「天使樣の歡ばない冷たい藝術」と云ふやつでせうか、まあ相性が惡いだけなのかもしれませんが。
■そしてまあ、「現代美術編」の方に、こんな臺詞が出て来るのですね。
「色はあまり好きでない。どんな色でも、塗る端から何かの図になるのがうるさい」
これは法廷で發せられる言葉だといふのですから、マア本書を奇書とも評したくなるわけでありますが(尤も私の讀書體驗の少さから出る言葉ですからね。世に言ふミステリ三大奇書は讀んでゐますが)、この言葉がとてもひつかかつたのですね。これをその場で私は次のやうに讀み換へてみたのです。
「言葉はあまり好きでない。どんな言葉でも、発せられた端から何かの意味になるのがうるさい」
■なにせ、私が手に取つてゐるのは一枚の繪畫ではなく、一册の本なのですから、幾ら著者が古今東西の(洞窟壁畫からですから將に古でせう)繪について論じやうとも、ぢやあ言葉は如何にといふ問ひが出て来る。作家にとつて言葉とは如何なるものぞといふ、さういつた想ひがふと腦裡を走つたのですね。高村薫には、倫理的と云ふ單語が適切なのか判らぬけれども、さういふものに向きあふ作家であるといふ印象がある譯です。
■して、下卷に移れば只管打坐を旨とする曹洞宗の坊主たちとの對話が繰り廣げらるるのですな。かうなると、先の「色」にもまさしく意味が出て来るわけですね。不立文字の禅の喋りすぎといふのも變な話だが、オウム真理教とは宗教であるのか? ヨガと坐禅とは? 『バガヴァッド・ギーター』を如何に解釋すべきか? ……これに我等が一般人である合田刑事が附け燒き刃の鋭さで切れ込むのですな。「道元にはひたすら只管打坐を唱へる道元Aと、『正法眼蔵』を書き表したる道元Bがあるのではないか?」などと。
■この邊りは、精々『正法眼蔵随聞記』は讀んでゐるといつた自分にとつては大層面白ひもので、顕密の事やら、或いは親鸞A、親鸞B、最後の親鸞などといふものもゐたのだらうかとか、復た色色の仏教本でも讀みたくなつて来るといふ具合でしてね。
■しかし合田さんは超人的といふか、天才的といふか、普通の小説に出て来るやうな警察官なら推理にそれをお使ひなさいな。
■ところで、正月に櫻木町の成田山別院で買つた未歳の御守といふのが目の前にぶら下がつてゐるのですが、此の干支に割り振られてゐるのは大日如來なのですね。大日如來の元を辿れば印度の例の神樣に行き着くわけだが、矢張り印度哲學にまで行かねばならんのかといふやうな気にもなりますが、果たして淺學菲才の我が身に龍樹など讀めたものでせうか。
■然し、我が國の仏教は中國を経て入つてきてゐる。鈴木大拙などは其処で更に中國人の思想といふか、物の考へ方が加はることで、より日本人に、日本的靈性に合つたものになつたのだと、可成り肯定的でせう。本書では、オウムの志向を取り扱ふせいもあつてか、一足飛びに印度が出て来る。
■尤も、幾ら何だかんだと言葉を連ねやうとも、「信」の内か外かといふところで彷徨いていては、マア何ともならんという氣にもなる。そして、私にしたところで、其処に何か特別な身體的な體驗が無ければ嘘ぢやあるまいかと思つてしまふ処が、或いは私も逆説的に現代の、場合によつてはオウムに入信してゐたかもしれぬ世代の感覺やもしらんなどとも想像する次第。
■然して繪てふものの根源やら言葉や意味の外に對する何故を巡つていく……警察小説といふ奇妙さ、ザクやガンダムてふ單語の唐突にあらわれる可笑しさなど、幾らか私も笑いたくなるやうな感じもある。だが、そこがいい、とでも云ふべきなのでせうね。言葉に爲らぬものを巡る吾々の社會の、或る意味で凝縮された存在である警察や裁判といふ俗事が對比といふでなく、向き合ふでもなく、逡巡するといふか、内包するといふか、兔も角わけのわからぬものが在り、また無いのかも知れず、しかし、吾々二足獣、人間なるものは、そのどちらともに因つて成り立つてゐる其処の渾沌に向き合はねばならんものなのでせう。そして、この作者はそんな世界を丸ごと書かねばといふ強度がある、其んな風に感じるのですが、如何。
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